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愛を奏でる砂漠の楽園 04

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 考えるよりも早くそう言って、ユスフは口元から離した手で、シナンの背中を渾身の力を振り絞って押していた。
「――痛ッ!」
 繋いだままとなっていたシナンの手が離れると共に床へと倒れ込んだユスフの背中を、激しい痛みと圧迫感が襲う。重い木の板が背中へとのし掛かって来たのだ。
 火が付いていなかった物であった為、熱さを感じる事は無かったが、それでも息をする事さえも苦しい程の痛みへと襲われていた。
 余りの痛みに全く動く事さえも出来ないでいると、シナンの悲痛な声が聞こえて来る。
「ユスフ」
 何の前触れもなく背中を押された事により体勢を崩していたシナンが、体勢を立て直しユスフの元へとやって来た。
「直ぐにこれを退ける」
「うぅ……。……お願いです。私をここへと残して行って下さい……。火の手も迫っておりますし、……もう私は歩く事さえも、……できそうにありません……」
 背中にのし掛かっている木の板を退けようとしているシナンへと、ユスフは弱々しい声で告げた。
 背中へとのし掛かっている木の板は、そう簡単に動くような代物では無い。このままここに居て木の板を退けるような事をすれば、シナンまで火の海に飲み込まれてしまう事となる。そんな事など絶対にさせる事は出来ない。
 それに例え木の板を退ける事が出来たとしても、まともに歩く事が出来るとは思えなかった。
「何を馬鹿な事を言っているんだ。直ぐに助ける」
「……お願いです。行って下さい……」
 殆ど声になっていない声でそう告げたユスフの視界が、徐々に不鮮明なものへとなっていく。それだけで無く周りの音もぼんやりとしか聞こえなくなって行き、大声で叫んでいるシナンが何を言っているのかという事さえも聞き取る事ができない。
 そんな悲しそうな顔をしないで欲しい。
 シナンがこの国を作り変えていく様を見たかった。
 しかしそれは叶わぬ夢であったようだ。
 もうシナンの居るこの世界に居る事はできないのだから。
 最後に何か伝えるとしたらこの言葉しか無いだろう。
「……貴方の事を、……愛していました」
 そう呟いた後、ユスフは意識を途絶えさせたのだった。





第十六夜◆幸せの花

 柔らかな風が頬に触れ、鼻先を海の香りが掠める。
「……んんッ」
「目を覚ましたか」
 二、三度睫を揺らした後瞼を開いたユスフの瞳へと映ったのは、頬が煤で汚れたシナンの姿であった。
 自分は夢を見ているのだろうか?
 それとも、桃源郷にでも居るのだろうか?
 目の前にシナンが居る筈が無い。
 何が起きたのかという事が分からず、ユスフは確かめるような表情を浮かべて身を起こそうとする。しかし背中へと鈍痛が走った事により、直ぐに地面へと引き戻されてしまう。
「痛ッ!」
「動くんじゃない。多分骨が折れている筈だから、ハムゼが来たら医者を手配するように頼む。それまで大人しくしていてくれ」
 柔らかな草の上で体を横たえていると、隣で胡座をかいているシナンに優しく頭を撫でられる。
 頭を撫でられるなど、小さな子供の時以来の事である。子供扱いされているように感じるよりも心地よさを感じ、ユスフは目を細めた。
 そうしている内に、徐々に周りへと気を配る事ができるようになっていった。
 ここを以前見た事があるような気がする。
 そう思い辺りへと視線を遣る事によって、自分達が居るのが木々に囲まれた場所であるのだという事をユスフは知った。
 更に辺りへと視線を遣る事によって、木々の間から覗き見えている青い空に灰色の雲が流れている事へと気が付く。やがてそれが雲では無く煙であるのだということへと気が付く事によって、木々の間から宮殿の一部を確認することができる事へと気が付いた。
 一度しか来た事が無かった為直ぐに気が付く事ができなかったが、自分達が居るのは以前後宮を抜け出した時に出た場所であるようだ。その事が分かると、ユスフはおずおずとシナンの方へと視線を遣った。
「……何故、私は生きているのでしょうか?」
「お前を俺がここまで背負って来たからに決まっているだろ」
 シナンの手が頭から離れると、ユスフは再び起き上がろうとする。
「――うっ!」
「だから起きるなと言っただろ」
「……なんて馬鹿な事を。あのまま火に飲まれた可能性だってあるのですよ!」
 シナンに促されるまま再び体を横たえると、ユスフは痛みだけでは無いものによって顔を歪めながら言った。
 死なずに済んだ事が嬉しく無いと言えば嘘になる。
 死なずに済んだ事へと確かに安堵していたが、それ以上に、若しかしたらあのままシナンも死んでいたかもしれないと思う事による恐怖の方が大きなものであった。
 ユスフが顔を歪めたのは、それだけが原因では無い。
 不幸を呼ぶ存在でしか無い自分は、あそこで一生を終えた方が良かったのかもしれないという思いがあったからだ。
「王の言葉をまだ気にしているのか?」
 シナンの言葉に対して頷く事はしなかったが、それは無言の肯定でしか無かった。顔を強ばらせたままでいると、大袈裟であると思える程の溜息が聞こえて来た。
「お前が不幸を呼ぶ存在であると王に吹き込んだのは、ペテン師でしか無い男だ。そんなヤツの言葉を信じる必要など無い。お前のせいでは無い。ここまで言ってもまだ不安なのならば、お前が気にしなくなる迄お前のせいでは無いと言い続けてやろう」
 強い口調でシナンが告げた言葉を聞く事によって、ユスフは心が軽くなっていくのを感じる。
 家族同然の者達が殺されたのは自分のせいなのかもしれないという思いは、自分だけは消し去る事ができないようなものであった。シナンはその事が分かっていて、強引であるとさえ思える事を言ったのだろう。
 今はまだ完全に思いを消し去る事は出来なかったが、それでも消し去る努力をしよう。そう思いユスフが拳を握りしめていると、シナンが更に言葉を続ける。
「それに、馬鹿な事を言っているのはお前の方だ。わざわざ助けに行った俺の努力を無駄にしろと言うのか?」
 そう言ったシナンの顔には、ふて腐れた表情が浮かんでいた。
 シナンの言う通りである。
 あのまま後宮の中で死ぬような事になっていれば、命の危険を冒してまで助けに来たシナンの努力を無駄にしてしまう所であった。そして命の危険を冒してまで助けに来てくれたシナンに、詰め寄る権利など自分には無いのだ。
 自分が今しなくてはいけない事は、シナンに感謝する事である筈だ。そんな事にさえ気が付く事が出来なかった己をユスフが恥じていると、シナンに頬を手の平で包み込まれる。
「おまけに、まだお前の言葉に返事をしていないんだぞ。ちゃんとお前の言葉に返事をさせてくれ」
 シナンが何を言おうとしているのかという事を、ユスフは簡単に推し測る事ができた。意識が途絶える前に呟いた「……貴方の事を、……愛していました」という言葉に対する返事をしようとしているのだ。
 シナンの浮かべている優しげな笑みから、何と言おうとしているのかという事を何となく想像する事が出来た。しかしユスフはそれを信じる事ができず、瞬きさえも忘れてシナンの顔を見つめながら言葉を待った。

「お前の事を愛している」