愛を奏でる砂漠の楽園 04
◇ ◇
部屋の中を満たしているのは、濃厚な麝香の香り。
シナンの側に居る時微かに鼻先を掠めていた香りは、部屋の中を満たしているこの香りであったようだ。
シナンの性格を考えると、望んで麝香を焚いているという事は考えられない。使用人の誰かが気を利かせて焚いているのだろう。ユスフはそんな事を考えた後、部屋の中から隣に居るシナンへと視線を移した。
いつもは年齢よりも大人びて見えるというのに、寝顔は二十歳という年相応のものであった。
今までシナンが大人びた顔立ちをしているのだと思っていたのだが、そうでは無かったようだ。背負っている物の重さにより、大人びた表情を自然とするようになってしまったのかもしれない。
この国の行く末は、まだ二十歳のこの男の肩へと掛かっているのだ。
シナンの顔を瞬きさえする事無く、ただじっと見つめている中、ユスフの脳裏に数時間前に聞いた王の言葉が甦る。
『明日、お前には後宮を出て行って貰う』
王の話しは予想していたようなシナンの話しでは無かった。
しかしシナンと会っている事が、王の耳へと入っている事は間違いが無いだろう。そうでも無ければ、今まで後宮の中で忘れられた存在へとなっていたというのに、今更になって家臣へと下げ渡すという事を王に告げられる筈が無い。――そう、ユスフは王の家臣へと下げ渡される事になってしまったのだ。
王の家臣へと下げ渡されなどしたら、シナンと二度と会う事ができなくなってしまう。そんな事など絶対に嫌だ。
どんなにそう思っても、後宮で暮らしているユスフに拒否権などある筈が無かった。
決められた事を受け入れる事しかできないユスフは、明日宮殿を去り王の家臣の元へと行く事となった。――ユスフが強引だと思う程の態度でシナンと体を繋げる事を望んだのは、二度とシナンと逢う事ができなくなってしまうという事が分かっていたからである。
まだシナンの顔を見ていたかったが、そろそろ後宮へと戻らなくてはいけない。
「貴方をいつの間にか愛していました」
シナンの頬へと軽く口付けた後、ユスフはそっと部屋を抜け出したのだった。
第十三夜◆激動の時
部屋の中へと差し込んでいる強い光へと誘われるようにして、シナンは目を覚ました。
日頃の疲労からいつもは目を覚ました時体が重く感じるのだが、今日は全く体が重く感じる事は無かった。その原因が何であるのかという事など安易に想像が付く。漸くユスフと逢う事ができただけで無く、ずっと欲しいと思っていた彼の体を手に入れる事ができたからである。
随分と現金なものである。
そう自嘲しながら寝台へと身を起こす事によって、シナンは昨晩まで隣に居たユスフの姿が無い事へと気が付く。
「……ユスフ?」
一体何時居なくなったのだろうか?
昨晩ユスフが寝ていた場所を触ってみたが、微かな体温すら既にそこには残っていなかった。
跡形も無くユスフが消え去っていた事から、シナンは昨晩の出来事が都合の良い夢であったのかもしれないと思ってしまう。
その時、部屋の中を満たしているのが、使用人が気を利かせて焚いてくれている麝香の香りだけでは無い事へと気が付く。
麝香とは違い眩暈がする程に甘いこの香りは、ユスフの側に居る時に感じていたものである。やはり、昨晩の出来事は夢では無かったのだ。
昨晩の出来事を思い出す事によって、シナンはユスフの様子が少しおかしかったように感じる。
あそこまで頑なに抱かれる事を望んでいたのは、何か理由があっての事であるとしか思えない。しかしユスフと逢う事が出来ない今、その理由を確かめる事はできない。
昨晩様子がおかしかった理由を尋ねるだけで無く、もう一度ユスフをこの腕に抱くには、全てを終わらせる必要がある。
既に王へと反旗を翻す準備は万端となっている。それにも拘わらず、シナンはまだ王へと反旗を翻す事ができずにいた。
今までそれが時を見誤ってしまうような事をすれば、取り返しの付かない事になってしまうからだと思っていた。だがそうでは無かったのだという事へと気が付いた。
失敗する事が怖かったからだ。
こんな愚かな理由で二の足を踏むなど自分らしく無い。そして、こんな事で二の足を踏むような弱気な人間では、民を幸せにする事など出来ない。
身支度を整え寝室を出たシナンの顔には、覚悟の表情が浮かんでいた。
◇ ◇
ユスフが閨房を訪れた翌日、シナンは王へと数日以内に反旗を翻す旨を側近達へと伝えた。
慌ただしく準備が進み、ユスフが閨房を訪れてから三日が経過した今日、明日明後日中には王へと反旗を翻す事ができるまでの準備が整った。そんな中、シナンはハムゼから気になる話しを聞く事となった。
「ユスフが後宮に居ない?」
「はい」
ユスフが後宮から居なくなっているという事を知ったシナンの顔には、渋い表情が浮かんでいた。
三日前閨房を訪れた時のユスフの様子は、おかしなものであった。その事と、後宮から居なくなっている事と何か関係があるとしか思えない。
「何処に行ったのかという事は分かるか?」
「官官に幾らかの金を握らせてみたのですが、それだけは言えないと言って口を開こうとはしませんでした」
そうハムゼが言い終えた時、側近の一人が顔を強ばらせて部屋の中へと入って来た。
「どうした?」
「王がお呼びです」
側近の言葉を聞きシナンは顔を強ばらせた。
王の呼び出しを受ける理由として思い浮かぶ事は二つである。後宮から姿を消したユスフに関する事と、謀反を企てている事に関する事である。
明日明後日中には反旗を翻す手筈になっているが、王がその事へと気が付いている様子は全く無い。だが絶対に王が気が付いていないと言い切る事はできない。
反旗を翻そうとしている事に関する事であれば、面倒な事になる。その為、そちらの事であって欲しく無いと思いながらも、ユスフに関する事であって欲しく無いとも思っていた。
このまま考えているだけでは、埒が明かないだろう。
「どのような用件なのかという事は分かるか?」
「それは分かりかねます。どうなさいますか?」
側近の言葉に、直ぐに返答する事はできなかった。
反旗を翻そうとしている事が王の耳に入っているのならば、足を運ばずこのまま反旗を翻すのが賢明な判断である。しかし気が付かれていないのならば、不審を感じさせない為にも足を運んだ方が良いだろう。
今直ぐに王へと反旗を翻す事も可能であったが、準備は万端であるに越した事は無い。それにユスフに関する事であるのならば、足を運ばずにはいられなかった。
「もしもの事を考えると、一人では行かない方が良さそうだな。だが、王がこちらの思惑に気が付いていない可能性もあるので、大勢で行くのも不味いだろう」
ユスフに関する事である可能性が高いと判断したシナンは、側近達へと向かってそう告げた。そんな言葉を聞き、ハムゼが一歩前へと出る。
「でしたら私がお伴します」
「お前がいたら百人力だ」
部屋の中を満たしているのは、濃厚な麝香の香り。
シナンの側に居る時微かに鼻先を掠めていた香りは、部屋の中を満たしているこの香りであったようだ。
シナンの性格を考えると、望んで麝香を焚いているという事は考えられない。使用人の誰かが気を利かせて焚いているのだろう。ユスフはそんな事を考えた後、部屋の中から隣に居るシナンへと視線を移した。
いつもは年齢よりも大人びて見えるというのに、寝顔は二十歳という年相応のものであった。
今までシナンが大人びた顔立ちをしているのだと思っていたのだが、そうでは無かったようだ。背負っている物の重さにより、大人びた表情を自然とするようになってしまったのかもしれない。
この国の行く末は、まだ二十歳のこの男の肩へと掛かっているのだ。
シナンの顔を瞬きさえする事無く、ただじっと見つめている中、ユスフの脳裏に数時間前に聞いた王の言葉が甦る。
『明日、お前には後宮を出て行って貰う』
王の話しは予想していたようなシナンの話しでは無かった。
しかしシナンと会っている事が、王の耳へと入っている事は間違いが無いだろう。そうでも無ければ、今まで後宮の中で忘れられた存在へとなっていたというのに、今更になって家臣へと下げ渡すという事を王に告げられる筈が無い。――そう、ユスフは王の家臣へと下げ渡される事になってしまったのだ。
王の家臣へと下げ渡されなどしたら、シナンと二度と会う事ができなくなってしまう。そんな事など絶対に嫌だ。
どんなにそう思っても、後宮で暮らしているユスフに拒否権などある筈が無かった。
決められた事を受け入れる事しかできないユスフは、明日宮殿を去り王の家臣の元へと行く事となった。――ユスフが強引だと思う程の態度でシナンと体を繋げる事を望んだのは、二度とシナンと逢う事ができなくなってしまうという事が分かっていたからである。
まだシナンの顔を見ていたかったが、そろそろ後宮へと戻らなくてはいけない。
「貴方をいつの間にか愛していました」
シナンの頬へと軽く口付けた後、ユスフはそっと部屋を抜け出したのだった。
第十三夜◆激動の時
部屋の中へと差し込んでいる強い光へと誘われるようにして、シナンは目を覚ました。
日頃の疲労からいつもは目を覚ました時体が重く感じるのだが、今日は全く体が重く感じる事は無かった。その原因が何であるのかという事など安易に想像が付く。漸くユスフと逢う事ができただけで無く、ずっと欲しいと思っていた彼の体を手に入れる事ができたからである。
随分と現金なものである。
そう自嘲しながら寝台へと身を起こす事によって、シナンは昨晩まで隣に居たユスフの姿が無い事へと気が付く。
「……ユスフ?」
一体何時居なくなったのだろうか?
昨晩ユスフが寝ていた場所を触ってみたが、微かな体温すら既にそこには残っていなかった。
跡形も無くユスフが消え去っていた事から、シナンは昨晩の出来事が都合の良い夢であったのかもしれないと思ってしまう。
その時、部屋の中を満たしているのが、使用人が気を利かせて焚いてくれている麝香の香りだけでは無い事へと気が付く。
麝香とは違い眩暈がする程に甘いこの香りは、ユスフの側に居る時に感じていたものである。やはり、昨晩の出来事は夢では無かったのだ。
昨晩の出来事を思い出す事によって、シナンはユスフの様子が少しおかしかったように感じる。
あそこまで頑なに抱かれる事を望んでいたのは、何か理由があっての事であるとしか思えない。しかしユスフと逢う事が出来ない今、その理由を確かめる事はできない。
昨晩様子がおかしかった理由を尋ねるだけで無く、もう一度ユスフをこの腕に抱くには、全てを終わらせる必要がある。
既に王へと反旗を翻す準備は万端となっている。それにも拘わらず、シナンはまだ王へと反旗を翻す事ができずにいた。
今までそれが時を見誤ってしまうような事をすれば、取り返しの付かない事になってしまうからだと思っていた。だがそうでは無かったのだという事へと気が付いた。
失敗する事が怖かったからだ。
こんな愚かな理由で二の足を踏むなど自分らしく無い。そして、こんな事で二の足を踏むような弱気な人間では、民を幸せにする事など出来ない。
身支度を整え寝室を出たシナンの顔には、覚悟の表情が浮かんでいた。
◇ ◇
ユスフが閨房を訪れた翌日、シナンは王へと数日以内に反旗を翻す旨を側近達へと伝えた。
慌ただしく準備が進み、ユスフが閨房を訪れてから三日が経過した今日、明日明後日中には王へと反旗を翻す事ができるまでの準備が整った。そんな中、シナンはハムゼから気になる話しを聞く事となった。
「ユスフが後宮に居ない?」
「はい」
ユスフが後宮から居なくなっているという事を知ったシナンの顔には、渋い表情が浮かんでいた。
三日前閨房を訪れた時のユスフの様子は、おかしなものであった。その事と、後宮から居なくなっている事と何か関係があるとしか思えない。
「何処に行ったのかという事は分かるか?」
「官官に幾らかの金を握らせてみたのですが、それだけは言えないと言って口を開こうとはしませんでした」
そうハムゼが言い終えた時、側近の一人が顔を強ばらせて部屋の中へと入って来た。
「どうした?」
「王がお呼びです」
側近の言葉を聞きシナンは顔を強ばらせた。
王の呼び出しを受ける理由として思い浮かぶ事は二つである。後宮から姿を消したユスフに関する事と、謀反を企てている事に関する事である。
明日明後日中には反旗を翻す手筈になっているが、王がその事へと気が付いている様子は全く無い。だが絶対に王が気が付いていないと言い切る事はできない。
反旗を翻そうとしている事に関する事であれば、面倒な事になる。その為、そちらの事であって欲しく無いと思いながらも、ユスフに関する事であって欲しく無いとも思っていた。
このまま考えているだけでは、埒が明かないだろう。
「どのような用件なのかという事は分かるか?」
「それは分かりかねます。どうなさいますか?」
側近の言葉に、直ぐに返答する事はできなかった。
反旗を翻そうとしている事が王の耳に入っているのならば、足を運ばずこのまま反旗を翻すのが賢明な判断である。しかし気が付かれていないのならば、不審を感じさせない為にも足を運んだ方が良いだろう。
今直ぐに王へと反旗を翻す事も可能であったが、準備は万端であるに越した事は無い。それにユスフに関する事であるのならば、足を運ばずにはいられなかった。
「もしもの事を考えると、一人では行かない方が良さそうだな。だが、王がこちらの思惑に気が付いていない可能性もあるので、大勢で行くのも不味いだろう」
ユスフに関する事である可能性が高いと判断したシナンは、側近達へと向かってそう告げた。そんな言葉を聞き、ハムゼが一歩前へと出る。
「でしたら私がお伴します」
「お前がいたら百人力だ」
作品名:愛を奏でる砂漠の楽園 04 作家名:蜂巣さくら