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Twinkle Tremble Tinseltown 8

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TO THE HAPPY FEW


「ここのところ随分と機嫌がいいね」
 黒い駒から目を上げても、結局視界に入ってくるのは同じ色の瞳。まだ手の中にある物の方が幾分か艶を持ち、光っているような気すらした。
 本来ならば迷うほどのことはないのに、メタドンと共に投与された鎮静剤がようやく切れかけてきたばかりのワックには、チェッカーボードの趨勢が未だ完全に把握しきれないでいた。
 昼下がりの談話室は人が多い。昼食が終わってもまだ部屋に戻るということを考えつかない連中があてどなく蠢いていた。ある者はただ体をぶらぶらと揺すりながら歩き、ある者は床に座り込んでぽかんと宙を見つめている。
 この医療刑務所を設計した人物の名をワックは知らなかったが、取りあえず美的センスが欠如してることは確かだった。人が多く集まる場所にろくな陽光が入らず、まだ日も高いというのに蛍光灯へ頼らねばならないとは。電子的な色合いに浮かび上がる人影はくっきりしていながら、長時間見つめていると残像のように現実感が失われていき、ちらちらとぶれる。


 落ち着かないのは盤の上も同じことだった。勝負はまだたけなわを迎えておらず、どちらの駒も端には到着していない。リーが一手指し、飛び越えた相手の駒を取り上げる。
「ユルゲン。見てみなよ、鼻歌なんか歌ってる」
 強ばった首を無理矢理動かし、顎で示された方向へ視線を向ける。声は聞こえなかった。だが確かにナースステーションのカウンターに肘を突いた看守は機嫌が良いようで、書類を整理している看護士に何事か話しかけていた。顔には笑みすら浮かんでいた。いつも患者に向ける悪意と蔑みの籠もったものではなく、朗らかと呼べるような類の。

「理由を知ってる?」
 もつれる髪を掻き上げ、リーはゆったりと目を細めた。余裕ぶるだけの権利はある。彼は確かに気が触れていたが、チェッカーの腕には素晴らしいものがある。彼と互角に渡り合える人間はこの施設でも片手で数えるほど。その一人に含まれていることを、ワックは決して名誉だとは考えていなかった。
 肺の底にある淀んだ二酸化炭素をすべて押し出す勢いで、ワックは深く息をついた。それだけで肩胛骨が軋みを上げる。
 教鞭を執っていた頃に比べ格段に動きの鈍くなった指で黒い駒を一つ、二つと進ませるだけでも容易とは言い難い。奪ったものを枠から取り去る動作となると尚更だった。
「給料日じゃないな」
「ここの給料支払いは十日締めだっけ? あれ、二十日? とにかく“お前はクビだ”(You're fire)」
 丸い駒をつまみ上げるのに手間取っているワックへ手を貸し、リーは率先して自らの手勢をテーブルの上へ投げ落とした。
「入所費は二十日に落ちるね。二割の控除、三割の保険。それでも自己負担額は州内の平均よりも720ドル高い。はいよシルバー、進め進め竜騎兵」
 捲し立てながらも、返す手で再び自らのものを一つ進める。更なる躍進へ続くはずの道は弾かれ、空白が一ますできあがった。
「これさあ赤い駒は軍人で黒い駒は坊さんらしいよ。知ってた?」
「赤と黒」
 むくんだ手の中で駒を揺すり、ワックはこっくりと頷いた。
「スタンダールか」
 彼の小説を愛していた同僚を思い出す。もっとも彼女の場合、興味を抱いていたていたのはその人間描写や心理分析ではなく、ジュリアン・ソレルやファブリス・デル・ドンゴであったようだが。
 だからこそ、自らが作家の一番嫌う俗物的な人物へ成り下がっていることにすら気づかなかったのだろう。噂では州外の大学に招致され、念願の教授色を手に入れたと聞いている。
 象牙の塔で交わされる噂話はおろか、学会誌すら届かなくなってもう何年経つのだろうか。日付は曖昧だった。
「難しいことは分からないけどね」
 ジェラール・フィリップのように早世した人間を連想させる、少年のような瞬きをしてみせながら、リーは盤面に視線を落とす。
「そのどちらにもあまり縁がなくて、仕方ないから代わりに男の尻を掘る気にさせるもの、なあんだ」
「結婚を?」
「論理の飛躍」
 ワックが振り向いた隙に、すばしっこい動作で手を伸ばす。
「時は春、恋の季節」
 プラスチックと木のぶつかり合う固い音が響き、二つの僧侶は見事征服される。これで差は埋まった。目やにがこびり付き、熱を持ったように重い瞼を蠢かし、ワックは数を数える。毎日過剰に投与される薬のおかげで、体と頭はまだ接続不良のままだった。


「官能的な(sultry)、鬱陶しいほどの(muggy)」
 近づいてくる看護士を横目で見上げ、わざとらしく声を張り上げる。
「君もそう思うだろモニーク」
「何ですって?」
 取り立てて美人というわけではないが、彼女の身のこなしはいつでも男を誘うかのようだった。今も薬と三角形の紙コップを持つ手は動かさず、白い制服に包まれた尻をくねくねと振りながら歩く。
「聞こえなかったわ」
「大したことじゃないよモニィイク。茹だっちゃって(sultry)息が詰まりそう(muggy)ってだけで」
「今日は肌寒いわよ。私カーディガン持ってこなかったこと後悔したくらい」
 新人ではないが、ベテランの域に達するほど感情を失っているわけではない彼女は、その性格に由来するさばさばとした口調で言葉を切り捨てた。
「厚着したら」
「やっぱりいいや」
 屈み込んで床に落ちた新聞紙を拾う時、たわんだ豊満な胸へ露骨に視線を走らせる。彼女が顔を上げたとき、リーはいかにも人好きのする、羊のような笑みを顔いっぱいに広げて見せた。
 秋波を軽やかに無視し、看護士は手の中のものを差し出す。
「お薬の時間よ」
 いつも通りのやりとり。リーはまず不安定なコップだけを受け取った。
「決着が付いてからじゃ駄目かな」
 盤を顎で示す。今のところほんの一つ差で、敵が優位に立っていた。それをまるで苦にしている様子も見せず、弾かれた丸い駒を指で滑らせる。昼食に出された卵のスープが一滴落ちている上を通ったとき、合成樹脂とプラスチックが擦れ合って立てる音は気休め程度にだが緩和された。
「後ちょっとで坊さんを皆殺しにできるのに」
「飲んだ方が頭もすっきりするわよ、きっと」
 趨勢にちらりと視線を走らせたモニークの口調はとりつく島もない。
「さっさと飲みなさい」
 それから手勢の身体を考えあぐねているワックにも全く同じ目つきを投げかけ、心にもない言葉を付け足した。
「ミスター・マーチを見習ってお利口になるの」
「彼はホモだよ」
 リーは平然とした顔で返した。
「ソネットなんか研究してる大学教授は全員ホモだよ、間違いない」
 いちいち訂正することも億劫で、ワックは俯いたままゲームに集中するふりをした。実際、真剣に考えないと手駒たちはドミノのようになぎ倒されていくだろう。つまらない中傷よりも、女性に誤解されることよりも、それはほんの少しだけ癇に障るように思えた。
「どっちにしろ、飲むのが規則よ」
 看護士の言葉は放たれるごとにのっぺりとしていく。ここが潮時だと機敏に察し、リーはようやく子供のように頂戴のポーズをして見せた。
「恋人がいなければ、誰も気にかけてくれる人がいなければ、例え王様であっても、世界と黄金の全てを手に入れたとしても」