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Twinkle Tremble Tinseltown 8

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『最近林檎をよく食べるんだけれど、万病の薬って言うらしいね』
 そんなこと、主婦の経験がある人間なら誰だって知っている。下品に鼻すら鳴らしそうになりながら、据わりの良い場所を求めて頭の位置を調節する。
 スーパーに並ぶ固く小ぶりの赤い実を、以前の彼女はよくサラダに入れた。家政婦はビーフシチューの風味付けにすり下ろして入れるくらいだろうか。あまり使わないことは確かだった。男性にしては珍しく果物を嫌わない夫は、小腹が空いたとき林檎をそのままかじることもあるくらいで、そんなときは普段身に纏う葉巻の香りが清涼な甘酸っぱさに上塗りされ、途端に彼本来の姿である少年が顔を出すのだ。恐らくは顔つきも悪戯小僧のそれなのだろう。
 もう何年も、彼のそんな表情を見ていない。


 ノックの音に次いでやってきたスリッパの音。先導するのはほんのりとバターとレモンの香り。もうそんな時間なのかと、彼女は手探りでラジオの音量を絞った。
「マドレーヌ?」
「ミセス・カーシュからお裾分けで頂いたレモンが、ちょうどいい具合に熟れてきたんですよ」
 誇らしげな言葉に見合う豊かな芳香が近づいてくる。
「実家から送っていただいたって言っていた?」
「ええ」
 身を起こした膝の上へ被せられるのは、古い映画にでも出てきそうな脚付きの盆で、結婚してすぐ何を思ったか夫が買ってきたものだった。
 休日の昼前、夫が新妻のために遅い朝食を乗せて運んでくるなどという行事がお互いすぐに飽きてしまい、しばらくは存在すら忘れていたのだが、まさかこんな使い方をするとは思いも寄らなかった。台の上に並べられていく陶器が立てる音は、固いようで柔らかい。
「先ほどミスター・スピアーズのところへ持っていったら、皆さんそれは喜んでくださいましてね」
 言葉の節々が今にも頭をぶつけそうな程浮ついてるのは、恐らく巷で噂になっている検事のボディガードのおかげだろう。噂によるとなかなかの美丈夫らしく、社交の場に引っ張り出されるのも時間の問題と耳にしている。
「ベルにはいつも悪いわね」
 敢えて素知らぬふりで、彼女は差し出されたカップを受け取った。
「マドレーヌ以外にも、何かお返しするべきかもしれない。買いに行こうかしら」
「今度メイシーズに行ったとき、見繕っておきますわ」
 ひんやりとした白磁が小気味良い衝撃と共に温まっていく。満たされるにつれ、アールグレイの香りが濃くなり鼻を擽る。一口含んだだけで、体はじんわりと温まっていく。
「少し高いお菓子でも」
「いいえ、私が自分で」
 走った沈黙を分析するのは簡単だった。十割方、面倒くささ。
「でも奥様」
 言い淀む口調に、ため息を一つ。頬を撫でる湯気に混じり、天井に立ち上っていく。
「大丈夫よ。タクシーで30分も掛からないわ」
「旦那様に一度お尋ねになった方が良いかと思いますが」
「別に怒りはしないわ」
 噤まれた口に押し込められた言葉を予測する。怒られるのは一体誰か。外出することが問題なのではない。その先に待ちかまえているものが厄介なのだ。
「私は彼の飼い猫って訳でもないし、前にも言ってたのよ。ミスター・スピアーズのこともあるから。今度の晩餐会、いつだったかしら」
「来週の木曜日に」
「そうだったわね。それまでに何か。あと買いたい物があって」
 手を伸ばした先にある焼き菓子はまだ冷めきっていない。皿を押し出した主がまた否定らしき言葉を紡ぐ前に口を開く
「林檎を。主人の好物だから」
 甘酸っぱさは香りだけで、一口かじれば生の果実特有のほろ苦さとバニラエッセンスの甘さが絡み合い、舌の上で熱く溶けていく。
「是非とも自分で買いに行こうと思って」
 相手は礼儀と知性を持ち合わせている。それ以上は食い下がろうとせず、おとなしく控えていた。釈然としないものを菓子と一緒に飲み込み、下品だと分かっていながら駄目押しとばかり紅茶で流し込む。
 時折覚えるひずみは、別個の人間であるからには当然のことだ。それに夫を怖がる気持ちは分かる。彼の気持ちも分からなくはないが、それにしても少し過敏すぎるのではないかと思うほど彼女のことを気にかけるのだ。

 もっとも、不要な気詰まりは高級な茶葉にも、菓子を作った主にも失礼な話だった。今は出された物を堪能しようと、彼女は出来る限り優雅な仕草でカップに口を付けた。



 満腹の後に訪れるのはやはり睡魔だった。
 まどろみから醒めたのは微かな気配に気付いたから。時間は分からないが、どうやら雨は止んでいるらしい。名残は底冷えのする空気だけで、思わずシーツからはみ出た肩を震わせる。静まり返った部屋はその大きさが際立ち、ただ小さく衣擦れの音だけが空気を細かく破いていた。

 身を起こそうとしたところでベッドが軋む。背後から包み込むのはその大きな体躯だけではない。葉巻の香り、雨の匂い、排気ガスの煤煙、整髪剤の香料、まだまだ厳しい夜風の冷たさ。歩いて帰ってきたのか、いつもよりも少し高い体温に煽られ、一際強く立ち上る。
「お目覚めか、ディア」
「帰ってたなら起こしてくれたら良いのに」
 まだひやりとする頬に自らのものを押し当て、甘く詰る。
「夕飯は?」
「食べてくるつもりだったが、気まぐれでね」
「困ったわ、昨日の残り物しかないのに」
 含まれた茶目っ気に笑みを浮かべ、腹に回された大きな掌に指を伸ばす。その上へ更に重ねられた手が、うっとりするほど優しい動きで彼女の手を誘導した。触れたリネンシャツと固い感触に、思わず振り返る。
「駄目ね、勝手に開けちゃったの」
「テーブルに置いてあったからね。宛名は私だったから、問題はないだろう?」
 肝心なところで抜けている。心中で家政婦に恨み言を並べ立てている彼女とは裏腹に、夫はすこぶる上機嫌だった。
「センスがいい。選んだのは君が?」
「お気に召して良かったわ」
 恐らくは銀色で梟を象ったカフスへ指先を這わせ、ほっと息をこぼす。
「見てないから心配だったの。少し早いけど、十八周年記念よ」
「愛情深い奥方を持って幸せ者だよ。選んだものがどれだけ素晴らしいか」
 回された腕の温度はとてつもなく心地よいのに、声には恐ろしいほどの静けさが入り込む。
「君にも見せたい」
「ナイジェル」
 背後の広い肩へ身を埋め込むようにしながら、彼女は見えない瞳を懸命に夫の顔がある位置へと動かした。
「貴方は何も恥じる必要はないの。これはちょっとした余興なのよ」
 答えは返ってこなかった。ただ一層体を引き寄せられ、ぴったりとスプーンのように重なりあう。薄い布越しに彼の鼓動を受け取り、背中の皮膚を伝わって自らの心臓と共鳴している。
 そんなことはあり得ないのだと分かっていても、彼女は光を失って以来様々なことを感じ取ることが出来るようになったと信じていた。音、匂い、そして心。目を閉じ、体を覆う存在に身を委ねる。
 外の世界から遮断されている今は、ただ彼の存在だけを感じていれば良かった。注意を払ったり、過敏になりすぎることなしに。こちらが心配する暇もないほど惜しみなく与えられ、そして守られている。
「ファニー」
 彼女の好む低く穏やかな声で、夫は耳元を愛撫した。
「お礼は何が良い。君の望む物を」