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Twinkle Tremble Tinseltown 8

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love is blind



 一ヶ月の空白期間に、荷物の集配担当者が変わったらしい。電話口で応対した声は聞き覚えがなく、彼の方も確認を取る際、馴染みとなった青年のように奥様ではなく、フランシス・ラムゼイ様との呼称で言葉を締めくくった。
 もちろん、その程度のことで機嫌を悪くするほど彼女も狭量ではなかったが、思わずはっと息を飲み込んでしまったことも確かである。一瞬とはいえ、自らの名前を認識できなかったという事実は、戸惑いを呼び起こすには十分なものだった。


 夫である男性と結婚して18年。その間、フランシスなどという上品ぶった名前で呼ばれたことは殆どない。一番よく用いられるのはファニーやファニータだが、これは夫とかつての仕事仲間たちにのみに許された特別な名前だった。
 家政婦を始め、家に出入りする数多の人間は奥様、ミセス・ラムゼイ、親しくなったところでフランが限度。50も目前にして、なお優美な面立ちと体の線を残す彼女には、確かにフランシスなどと言った英国式な呼び名がお似合いだった。金も地位も持ち合わせていないならば、せめて格式だけでも与えてやりたいと願った両親の努力は、最大限に役立ったのだ。


 集配人は四時頃に家を訪れるのだという。電話をナイトテーブルへ落とし、身をベッドへと投げ出し、それから枕の下に押し込んであるブザーを引っ張り出す。ボタンを押せば30秒以内に飛んでくる家政婦は知人の斡旋だが、本当によく働く女だった。家事の一切できない女主人に代わり、くるくると忙しなく、だが騒がしさは一切放たず動き回っている。

 微かな軋みを上げてドアが開き、耳慣れたニューオリンズ訛りが耳に滑り込む。
「四時にポール・スミスからカフスが届くわ」
「先週お頼みになったものですね」
 高揚を含んだ口調につられて、彼女も枕に右頬をつけたまま微笑んだ。
「こんな早く着くなんて、良い仕事ね。結婚記念日は再来週なのに」
「さぞかしお喜びになられるでしょう」 
「そうだといいのだけれど、実物を見てないのよ」
 販売員の流暢な説明に沿って想像しようとする。
「趣味じゃないなんて言われたらどうしましょう」
「奥様がお選びになったものを、まさか」
 脱いだパンプスは揃えたはずだが、律儀な家政婦には散らかっていると映ったらしい。右手のクローゼットが開き、それから分厚い絨毯を叩くスリッパが立てる心地よい音。
「愛しておられますから」
「そうね」
 心からの敬愛と共に掛けられた言葉は、ひどく表面的なものに聞こえる。言葉に嘘はない。
「私は幸せものだわ」
 寝返りをうち、優しい同情に背を向ける。
「お願いするわね」
 閉まった扉に遮断される人の気配に、大きく息を吐く。生活の中に他人が入り込んでくるのを悩むなんて、ひどく贅沢な話だと思った。望んではいたが、過剰すぎる程だ。ここまで何不自由ない、愛情あふれる幸せな生活なんて。


 例え夫が、今頃自分の娘ほどの女とベッドへ入っていたとしても、それは疑いようのない事実だった。
 彼の周囲にはいつでも女の影が付き纏う。最初から分かりきっていたことなので、彼女は気になどしていなかった。そもそも彼女自身がもう、出会った時には清純な乙女などと言えなくなっていたのだから。

 その昔の30歳といえば、怖いものなど何もない年齢だった。若さの疲弊を過度に恐れる必要はなく、かといって特権を手放すよう促されることもない。己さえしっかり持っているならば。

 夫となる男性はこの手で選ぶと彼女は幼い頃から決めていたし、事実その通りにした。懸命に自らを磨き続けた結果、希望通り背が高く、利口な男を見つけることができた。
 多少頑固なところはあるが、それは生き延び先を掴むためには致仕方ないことだ。自らも決してまっすぐな性格だとは言えないのだから、天秤に掛けたらむしろお釣りがでるほどだろう。

 自らの夫に、女性を引きつける魅力が失われていないという事実は彼女を誇らしい気持ちにさせた。そして彼はまた、誘いへ応えるだけの気概を持ち合わせている。
 相手の女たちはさぞかし苦労しているだろうと同情を覚えている程だった。慣れていた私ですら最初は泣いた位なのに、若いお嬢さんに怪我でもさせなければいいのだけれど。下世話な話は笑顔で聞き流していたが、無器用に見えて要領の良い彼のことだから、噂のような酷いことにはなっていないに違いない。

 手探りで小さくテーブルを探り、ラジオのスイッチを入れる。穏やかな調べはクララ・シューマン。真昼間からこんなものを流す粋な局もあるのだと感心しながら、彼女は目を閉じた。
 夕飯はおろかお茶の時間までもまだ余裕がある。今夜は遅くなるよと朝方告げた夫の言葉を思い出す。悲しい内容も、あの穏やかな声音に乗った途端耳に優しくなるのだから不思議なものだ。きっと他の女にもあんな風に囁いて−−。

 確かに気にはしていないつもりだった。そうあるよう努めてきたし、そんな自らに浸ってきた。けれどここまで無感動に夫と他の女の情事を想像している自らに、彼女は驚愕した。ラジオのくだらないメロドラマですら、もう少し感情移入して耳を澄ませているだろう。
 自らの身には、数え切れないほどの記憶が刻まれている。止めたいと言いながら結局吸い続ける葉巻の香り。包み込まれ、覆い隠すような広い胸と長い腕は未だ筋肉質だった。指は大きい掌に付随するもの特有の愚鈍さはなく、実に器用な動きで彼女の髪を梳く。そしてやはり、低く太い物静かな声。

 今この瞬間にも簡単に思い出すことができるのに、愛撫を受ける対象を自分以外の人間へ当てはめると、途端に現実味を失ってしまうのだ。確かに行われていると分かっているにも関わらず。

 音楽が止み、ディスクジョッキーの声が時間を駆け足で進行させる。感性と人格は一致しないものらしい。くだらない雑談に花を咲かせる男は、どこの局に雇われている人物とも代わり映えのしない賑やかでがさつな性格らしかった。
 恥じる必要のない程には詰まっている脳味噌と頑丈な頭蓋骨、ついでに豊かなハニーブロンドの髪を受け止めているおかげでぺしゃんこになった枕を取り上げ、両手で叩いて膨らませる。それからもう一度、頭を投げ出した。羽毛が柔らかく沈み込んでいくにつれて、気分が退屈の中に埋もれていく。それはすぐさま眠気と直結した。誰も見ていないにも関わらず、大きく開いた口を手で覆うと、彼女は吐き出した息で冷たい指先を温めた。

 いつもと変わらない昼下がりだ。やろうと思っていたことは幾らかあるが、どれも気力を必要とする。特に初めが肝心。今日は何かをする気にはなれなかった。
 ラジオから飛び出す騒がしい声の向こうに耳を澄ませば、微かな雨音。数時間前から降っていたが、特に昼食後この部屋に入ったとき、窓の隙間から忍び込む土の匂いと肌寒さで強く意識した。


 寝返りを打ち、音源の集中する方向に顔を向ける。動きと共に、枕カバーへ染み込んだ自らのシャンプーの移り香が空気へ噴出する。人工的な花の成分に包まれても、心はただただ均されていくばかりだった。
『そういえば果物の話』
 洗剤のコマーシャルが終わり、ジョッキーの喧しい声が再び戻ってくる。