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愛を抱いて 17

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33. 口付けはお早うの後に


 二人が沼袋駅へ戻って来たのは、午後11時過ぎであった。
午前1時まで開いている「ザボン」という名の喫茶店へ寄り、カルボナーラを食べた。
「ねえ、私達朝からずっと一緒にいるのよね?」
「そうだよ。
不思議かい?」
「そりゃ、不思議よ。
私と鉄兵君が一緒なんて…。」
「俺さ、今日君と一緒にいて…、もっとずっと以前に君と2人で街を歩くべきだった様な気がしたんだ。」
二人は「ザボン」を出た。
踏切りを渡った処で、私は云った。
「三栄荘へ寄ってくだろ?」
「え? 
でも…。」
「そんな困った顔をする事はない。
いつも来てる処じゃない。」
「…そう言えば、そうね。」
二人は三栄荘の入口へやって来た。
2階を見上げると、私の部屋も柳沢の部屋も真っ暗だった。
「あら、柳沢君帰ってないの?」
「そうらしいな…。」
部屋へ入ると、私は電燈を点け、カーテンを閉めた。

 「デートの感想を聴かせてよ。」
私は云った。
テレビは深夜番組をやっていた。
「とても愉しかったわよ。
私ね、いつも香織ちゃんの話を聴いてて、鉄兵君はこんな感じで女の子とデートするんだろうなぁって、想像してたの。」
「どんな感じ?」
「言葉では、旨く云えないわ…。
でも、想像通りだったわよ。」
柳沢は帰って来なかった。
私は彼女に泊まって行く様、勧めた。
「でも、悪いわ…。」
「俺は泊まってくれると嬉しいさ。
明日も午前中から授業があるんだ。
君が起こしてくれると助かる…。」
彼女がテーブルを片付け、私は布団を2つ敷いた。
明りを消して少ししてから、私は彼女の布団の方へ移動を試みた。
しかし、彼女に 「ゆうべは睡眠不足でしょ、早く眠った方がいいわ。」 と云って制された。
「スカートが皺になっちゃうんじゃない?」
私は云った。
「大丈夫。
いいの…。」
彼女は首まで毛布を被っていた。

 翌朝も晴天だった。
眼を覚まして、私はサイド・ボードがすぐ眼の前にあるのを、不思議に思った。
そして、世樹子が隣で寝ている事を思い出した。
寝返りを打つと、彼女は既に眼を開けていた。
彼女は私を視て、微笑んだ。
「全然眼が開いてないわよ…。」
彼女は毛布の端を、胸の辺りまで下げていた。
私は寝惚けた風を装って身体を一回転させ、彼女に寄り添った。
さらに彼女の毛布の下へ、身体を滑り込ませた。
ただ、実際私は眠かった。
私は彼女の腕に、私の胸を密着させたまま眼を閉じた。
そして一瞬、本当に眠りそうになった。
「これではいかん。」と思い、私は片腕を彼女の向う側へ回して、彼女の上へ身体を半分程覆い被せた。
彼女は困った顔で、仕方なく微笑んでいた。
「鉄兵君、重いわ…。」
私はその体勢で、しばらく眠った振りをした。
彼女は諦めた様に身体の力を抜いた。
私が眠ってしまったと思ったらしかった。
空かさず私は彼女に顔を近づけ、唇を奪おうとした。
彼女は素晴らしい反射神経で、さっと顔を横に向けた。
私の口付けは未遂に終わった。
再び私は顔を布団に埋め、眠った振りをした。

 随分時間を置いてから、私は再び顔を上げた。
彼女は依然顔を横に向けて、身体を硬くしていた。
「世樹子ちゃん…。」
私は精一杯の優しく明るい声で、呼び掛けた。
彼女は身体を硬直させたまま、顔を上に向け、私を視た。
「お早う…。」
笑いながら私は云った。
彼女の眼もとに、微笑みが甦った。
「おは…」
彼女の言葉を私の唇が塞いだ。
一瞬、彼女は抵抗を示したが、すぐに全身の力を抜いた。

 「鉄兵君て噂通り、女の子の扱い方がとても巧いのね…。」
「赤いサクランボ」で世樹子は云った。
「『口付けは、お早うの後に』って言うセオリーがあるのさ。」
「…?」
「相手の娘がキスを望んでいるという確信が持てなかったり、或いは望んでいないと思われる時に、如何にして彼女との接吻を成就させるか…。
タイミングを外さないためには、相手の不用意な瞬間を衝く事だ。
でも、相手があまりにも不用意な時にキスなんてしたら、殴られるのがオチだ。
女の子が中途半端に隙を造ってる時を、狙うべきなのさ。
自然に口を衝いて出る言葉を喋ってる時なんかが、ベストなんだ。」
「なる程…。」
「実は、『…おやすみの後に』って言うのが、本当なんだ。」
「…つまり私は、術中に嵌ったってわけね。」

 二人は飯野荘に向かって歩いていた。
「私達もう24時間以上、一緒に居るわ…。」
「ずっと引き止めて、君には迷惑をかけてしまったな。」
「そんな事…、あるけど…、昨日は素敵な昼と夜だったわよ。
そして今朝も…。」
「俺達は、きっと随分遠回りをしてしまったんだ。
24時間一緒に居たぐらいでは、追いつけやしないさ…。」
香織は既に出かけていた。
着替えを済ませて、世樹子は出て来た。
中野駅へ行き、電車に乗った。
車内は遅い午前の、柔らかな光に満ちていた。
代々木で彼女は電車を降りた。
ホームの途中で振り返り、小さく手を振る彼女の笑顔が、なぜかとても懐かしかった。
再び走り出した電車の中で、私はその理由を考えてみた。
しかし、私にはその時、まだ解らなかった。
ただ、それを不思議に感じた。
そして短いまどろみの中で、彼女の夢の話を想い出していた。
(『好きな人のそばに居る事が、願いなの…。
そして、愛される事が、夢なの…。』)
愛される事を願うのはエゴイズムだとする香織に対して、彼女は「愛する事は願い。愛される事は夢。」だと云った。
果たして彼女の夢の行方を思った時、電車は市ヶ谷に着いた。

 10月4日、中野ファミリーの6人は、北鎌倉の駅に降り立った。
「本当に凄いんだろうな? 
行ってみて、期待外れじゃ厭だぜ。」
柳沢が云った。
「鉄兵ちゃんが怖かったって云うぐらいだから、本物だろう。」
我々は、「アジサイ寺」へ向かう木陰の路を歩いていた。
「でも香織、よくそんな処へ入って行けたわね。」
上着の入った紙袋を片手に下げて、フー子が云った。
「無理矢理連れて行かれたのよ…。」
シーズンでなくとも、日曜ともなれば、その路は人出で賑わった。
「私、何かもうドキドキして来ちゃったわ…。」
世樹子が云った。
(アジサイ寺のあの洞穴は、何処へ続いていたのだろうか…?)
その事が、ずっと私の心の片隅に引っ掛かっていた。
(…途轍もなく長かった、あの洞窟の果てを、突き止めなければならない…。)
私はそう堅く決心していた。
「異次元へ繋がってるんじゃないのかな?」
ヒロシが云った。
「タイム・トンネルか…。」
「山の向う側へ突き抜けてるんじゃない?」
「霊界と繋がってるなんて事はないかしら…?」
「白骨死体ぐらいには、お目に掛かれそうだな。」
「ちょっと…、止めてよ…。」
(もうすぐ、あの洞穴の謎を解明する事ができる…。)
童話の世界で真剣に遊べる子供の様に、私の心は期待に奮えていた。

作品名:愛を抱いて 17 作家名:ゆうとの