着物と私
私と着物との出会い
呉服屋の孫です。
小さい頃、よく店先でお客様を相手に着物の反物を広げ、いろいろ説明している祖父母の様子を見ていました。
その割に、着物には全く興味を持たず、サラリーマンの父が転勤になったことで5歳の時に東京に移り住んでからは、着物とは縁もゆかりもない生活をしていました。
母も着物には全く興味がなく、呉服屋に嫁ぐからという理由で何枚かの着物を誂えたものの、ほとんど袖を通すことなく過ごし、仕付け糸がついたまま、たんすの肥やしになっている着物が多かったです。そして、何枚かはリサイクル着物ショップに売ったようでした。私はそんな母の様子を見てもとくに何を感じるわけでもなく、成人式も大学の卒業式もスーツで出席しました。
2001年、母が乳がんになり、闘病生活が始まりました。そして、父がリストラされ、数ヶ月の就職活動の末、故郷で再就職先を見つけたことから、22年間続いた東京生活に別れを告げ、私たち家族は父の実家へと転居することになりました。
20年以上別々に暮らしていた祖父母との同居生活が始まり、いろいろ戸惑うこともありましたが、やはり祖父母にとっては賑やかな家庭が懐かしかったようで、歓迎してくれている感じを受けました。昔は母と祖父母の間に確執があったのですが、このころの祖父母は闘病中の母にはいろいろと親切にしてくれて、父や私はホッとしたものです。母は再発や転移をくり返し、最終的に脳に転移して、2005年の5月に亡くなったのですが、母が亡くなる2ヶ月ぐらい前に、私はインターネット上で趣味を通じて知り合った男性と初めて会ってみて、実際に知り合いになりました。
母が亡くなってしばらくしたある日、私は祖母に呼ばれて、家と一続きになっている呉服屋の店先に行きました。そこには、浴衣の反物がいくつかあって、祖母がそのうちの1つを手にとって広げ、「この浴衣、あんたに似合いそうやと思うんやけど、縫ってあげようか?」と言いました。見ると、14万円という値札がついています。「えっ、だってこれ、こんなにするじゃない?悪いよ?。」と答えたのですが、「浴衣は誰かが着てこそ浴衣や。このままやったら、もったいないやん。嫌やなかったら、着たってや。」と言うので、「じゃあ、着方教えてね」とお願いして、縫ってもらうことにしました。
ミシンも使って浴衣を縫ってくれた祖母が、数日後に完成した浴衣を持って来てくれました。さすが山本寛斎さんデザインというだけあって、とても素敵な浴衣に仕上がっていました。早速、着付け講習会を開催してもらい、とりあえず、着方だけはわかった私。しばらく一人で練習し、半幅帯で基本的な「文庫結び」ができるようになりました。
さて、少し前に知り合った男性とは夏に上諏訪温泉に出かけることになり、私はそのときに浴衣を着てみようと思いました。祖母のお下がりの練習用半幅帯のほかに綿とポリエステルの安い半幅帯を買い、密かに着付けの練習を続けました。何しろ初めての浴衣なので、着るのに30分はかかります。しかも、あまり上手に着られないという状態でした。それでも何とか着られるようになったので、上諏訪で花火を見るときに着てみました。その時、初めて私の中で「和服っていいなぁ」という気持ちが芽生えました。
これが、私と和服との最初の出会いでした。