岩窟の秘石
2050年の地球。地球温暖化はもはや温暖化を通り越して、熱帯・砂漠化という段階に入っていた。都市の様相について、貧富の差は度を極め、巨大ビル群が立ち並ぶ中、骨と皮ばかりの、眼光だけはギラつかせた人々がまるで、枯れ枝が繁るがごとく、横たわっていた。電動自動車はそれらの、社会的弱者、見捨てられた人々、棄民たちの無防備な体躯に対して、やいばをあからさまにむき出しにして、棄民たちのやり場のない無力感が都市の風景を曇らせていた。ある都市では、棄民たちの存在が目障りであるという理由から、砂漠化の進行している地へと追いやり、棄民たちを絶望に落とし入れるのであった。力とスピードそして数の論理がすでに21世紀の慣例となっていた。だが、あからさまに、それらの慣例を用いる人はいない。彼らはその論理に腹の中では従いながら、テレビの世界で演じられているような偽善でもって、常に対処するのが慣わしとなっていた。都市の雑踏の中では、人々の頭の中にある、心地よいバーチャルな悦楽とは裏腹に、ただすれ違う人ですら、身体の方は敵同士であり、互いに傲慢さを主張しあうのであった。
19世紀より、工業化を進めていた日本は、もはや2050年には人間を「労働する機械」であると政府は定義するに至った。「働かざる者食うべからず」という、古色蒼然たるこの思想は、政府の財政逼迫と無関係ではなく、どうでもよいからとにかく、どこかの会社で働いて、社会保障制度をできるだけ圧縮したいのが、その狙いであった。人間を「労働する機械」と認定するかぎり、その他の慣例などもそれと連動して、変更を与儀なくされるのであった。その最たるものが「医療」であった。医学とくに西洋医学はもともと、人間の各器官を機械のようにそれぞれ機能に応じて分解して考えることを、前提にしているので、人間を「労働する機械」と考えることは馴染むかにみえた。しかしながら、事態は紛糾した。「医師」という名称は「メカニックマン」と変更され、その他、病名なども全くすべてというほど、変更されたのであった。それでなければ、人間を「労働する機械」と定義し、人々を労働に駆り立てることはできないというのが、政府をコントロールする中枢である官僚組織の言い分なのであった。だが、医師にとって「メカニックマン」という名称は、そのプライドが許さない。看護師は「助手」であり、これも看護師にとっては大きな困惑であった。そのような紛糾が、ほとんど合理的な解決をされないまま、政府の圧力で押し切られた形で、法案は可決されたのであった。
その様子を医師いやメカニックマンとなった山内はテレビで見ていたのであった。山内は、とくに目立ったところのないメカニックマンであった。特別、メカニックマンとしての技術的才能があるわけではない。またとくにメカニックマンとしての使命感に燃えているというわけでもない。ただ生業としてメカニックマンを営んでいるにすぎなかった。しかしながら、山内に限らずどのメカニックマンも頭を痛めていた問題があった。それは、名称が変更されてからは「孤独」と呼ばれている病が最近、猛威を振るっているということであった。山内の務めるクリニックいや名称変更により、働く機械としての人間「修理工場」にはもはや、この「孤独」と呼ばれる病を患っている人間機械が大勢、通いつめているのであった。この「孤独」に侵されていれば、行政が強引に押し進めている強制「労働」というものが不可能になってしまうのであった。その症状として顕著なのは「人間不信ならぬ人間機械不信」であり、またこの「孤独」という病に侵されている人間機械は他者とのコミュニケーションが、ほとんどできないかあるいは過剰にそれを求めるのであった。「孤独」という病に侵されている人々が通う施設は、まるで学校の授業のように、午前と午後の授業のような「プログラム」が組まれており、その施設のスタッフの意向に合わせるかのように、「プログラム」を毎日、患者たちは「孤独」を抱えながら演技していくのであった。「孤独」を抱えた患者は心のうちでは「プログラム」というものがなんのためのものなのかが理解できなかったのであった。しかし彼ら患者いや名称変更されてからは「ポンコツ」と呼ばれる患者たちは互いにコミュニケーションすることができないかあるいは話相手を求めて、ひっきりなしに話続けるのであった。「ポンコツ」とはいささか侮蔑的な響きがあるが、人間を労働するための機械という観点からすればそれは偽善的独裁政府の見解からすれば当を得たものとなる。
今日もまた「孤独」に侵された「ポンコツ」が山内のところへ一人やってきた。この「ポンコツ」はとにかく、一日中、スマートフォンでゲームをやっていないと、居てもたってもいられない、というもので本人には病識がなく、母親がとても普通には見えない、とのことで、「修理工場」へ連れてきたのであった。つまり、一日中ゲームをすることを、彼は自らの職業であると、本人はそう思っているとのことだった。山内は頭を抱えた。彼はやっぱり、「孤独」という病と診断せざるをえなかった。また、ある「ポンコツ」は一日中誰かと携帯電話で話をしていないと、気が済まないという。これも、山内は「孤独」と診断せざるを得なかった。どうして、話相手がいるのに、その「ポンコツ」は「孤独」なのかといえば、話し相手が常に必要であるから、という診断であった。またひどい場合には、テレビやラジオを相手に話している「ポンコツ」たちもいるのであった。あきらかに「孤独」とは他者との関係性が破壊されていることとなる。彼らの場合もまた、労働ができないから、という理由により「ポンコツ」と診断されたのであった。こう見てくると「ポンコツ」とは、ただ単に労働ができないという理由によって「ポンコツ」と診断されているように見える。事実それが、「ポンコツ」診断のガイドラインなのであった。
19世紀より、工業化を進めていた日本は、もはや2050年には人間を「労働する機械」であると政府は定義するに至った。「働かざる者食うべからず」という、古色蒼然たるこの思想は、政府の財政逼迫と無関係ではなく、どうでもよいからとにかく、どこかの会社で働いて、社会保障制度をできるだけ圧縮したいのが、その狙いであった。人間を「労働する機械」と認定するかぎり、その他の慣例などもそれと連動して、変更を与儀なくされるのであった。その最たるものが「医療」であった。医学とくに西洋医学はもともと、人間の各器官を機械のようにそれぞれ機能に応じて分解して考えることを、前提にしているので、人間を「労働する機械」と考えることは馴染むかにみえた。しかしながら、事態は紛糾した。「医師」という名称は「メカニックマン」と変更され、その他、病名なども全くすべてというほど、変更されたのであった。それでなければ、人間を「労働する機械」と定義し、人々を労働に駆り立てることはできないというのが、政府をコントロールする中枢である官僚組織の言い分なのであった。だが、医師にとって「メカニックマン」という名称は、そのプライドが許さない。看護師は「助手」であり、これも看護師にとっては大きな困惑であった。そのような紛糾が、ほとんど合理的な解決をされないまま、政府の圧力で押し切られた形で、法案は可決されたのであった。
その様子を医師いやメカニックマンとなった山内はテレビで見ていたのであった。山内は、とくに目立ったところのないメカニックマンであった。特別、メカニックマンとしての技術的才能があるわけではない。またとくにメカニックマンとしての使命感に燃えているというわけでもない。ただ生業としてメカニックマンを営んでいるにすぎなかった。しかしながら、山内に限らずどのメカニックマンも頭を痛めていた問題があった。それは、名称が変更されてからは「孤独」と呼ばれている病が最近、猛威を振るっているということであった。山内の務めるクリニックいや名称変更により、働く機械としての人間「修理工場」にはもはや、この「孤独」と呼ばれる病を患っている人間機械が大勢、通いつめているのであった。この「孤独」に侵されていれば、行政が強引に押し進めている強制「労働」というものが不可能になってしまうのであった。その症状として顕著なのは「人間不信ならぬ人間機械不信」であり、またこの「孤独」という病に侵されている人間機械は他者とのコミュニケーションが、ほとんどできないかあるいは過剰にそれを求めるのであった。「孤独」という病に侵されている人々が通う施設は、まるで学校の授業のように、午前と午後の授業のような「プログラム」が組まれており、その施設のスタッフの意向に合わせるかのように、「プログラム」を毎日、患者たちは「孤独」を抱えながら演技していくのであった。「孤独」を抱えた患者は心のうちでは「プログラム」というものがなんのためのものなのかが理解できなかったのであった。しかし彼ら患者いや名称変更されてからは「ポンコツ」と呼ばれる患者たちは互いにコミュニケーションすることができないかあるいは話相手を求めて、ひっきりなしに話続けるのであった。「ポンコツ」とはいささか侮蔑的な響きがあるが、人間を労働するための機械という観点からすればそれは偽善的独裁政府の見解からすれば当を得たものとなる。
今日もまた「孤独」に侵された「ポンコツ」が山内のところへ一人やってきた。この「ポンコツ」はとにかく、一日中、スマートフォンでゲームをやっていないと、居てもたってもいられない、というもので本人には病識がなく、母親がとても普通には見えない、とのことで、「修理工場」へ連れてきたのであった。つまり、一日中ゲームをすることを、彼は自らの職業であると、本人はそう思っているとのことだった。山内は頭を抱えた。彼はやっぱり、「孤独」という病と診断せざるをえなかった。また、ある「ポンコツ」は一日中誰かと携帯電話で話をしていないと、気が済まないという。これも、山内は「孤独」と診断せざるを得なかった。どうして、話相手がいるのに、その「ポンコツ」は「孤独」なのかといえば、話し相手が常に必要であるから、という診断であった。またひどい場合には、テレビやラジオを相手に話している「ポンコツ」たちもいるのであった。あきらかに「孤独」とは他者との関係性が破壊されていることとなる。彼らの場合もまた、労働ができないから、という理由により「ポンコツ」と診断されたのであった。こう見てくると「ポンコツ」とは、ただ単に労働ができないという理由によって「ポンコツ」と診断されているように見える。事実それが、「ポンコツ」診断のガイドラインなのであった。