わたしの読書体験
トモコちゃんは、女の子は恥ずかしがりやだから口でさよならが言えなかったのかな、と思いました。
給食がすんだあとのお昼休みも、トモコちゃんは教室に一人残り、本を読んでいました。さっきの女の子が来るのを、今か今かと待っていましたが、女の子がくることはありませんでした。
「ただいまー」
学校が終わり、トモコちゃんは家につきました。そして、大きな声とともにチャイムを何べん鳴らしましたが、いつまでたってもお母さんは出てきてくれません。
隣の家のおばさんが、ドアの前に立っていたトモコちゃんに駆け寄ってきて、そして言いました。
「お母さんは今病院にいるよ。おばさんと今から一緒に病院にいこう」
おばさんは、ちょうど近くを通りかかったタクシーを呼び止め、トモコちゃんと一緒に乗りました。タクシーの中でおばさんは、お母さんがおばさんと立ち話をしているときに突然倒れたこと、すぐに救急車を呼んで病院に連れていったが、命が危ない病気であること、お父さんの会社にも連絡を入れたからもう病院についてはずだということを、つぎつぎと早口でしゃべりました。
おばさんの話を聞いているうちにトモコちゃんはだんだん怖くなり、震えながら膝の上に抱えた赤いランドセルをぎゅっと抱えていました。
病院についたとき、お母さんの顔には白い布がかけられていました。お母さんの前で、お父さんが肩を落としてすわっていました。「お母さんは、たった今亡くなられたよ」お父さんがいいました。
あの元気いっぱいのお母さんが、死んじゃったってどういうこと?ひょっとして、あしたからもう会えなくなるってこと?
トモコちゃんは、頭がくらくらしてきました。トモコちゃんの頭の中は、まるで嵐の中のようにぐるぐる回っていました。これまでに見たり聞いたりしてきた、いろいろな絵や、歌や、言葉が混じり合って、ちらちら紙吹雪のように舞っています。
その中に、一枚の女の子の写真がありました。その写真は、家のガラス戸がついている本棚の中に飾ってある、お母さんが小学校一年生のときの写真です。その写真を見るたびに、トモコちゃんは、お母さんにも子供のころがあったことを、とても不思議に感じ、そして、この女の子とお友達になれたらいいのに、と考えていました。
次の瞬間、トモコちゃんはハッとしました。その子供の頃のお母さんが、きょうの中休みに、教室でいっしょに本を読んだ女の子とそっくりなのことに気がついたのです。
お母さんがなくなったその夜、トモコちゃんは自分のベッドをつかわずに、お父さんと同じベッドで寝ることにしました。ベッドの中で、トモコちゃんは、休み時間にふと後ろを振り向くと、知らない女の子がすわっていたこと、その子と一冊の本の読み合いっこをしてとても楽しかったこと、しかし、窓の外を見て振りかえると、その子が消えてしまっていたことを話しました。そして、女の子の顔が、ガラス戸の中にある小学生のころのお母さんの写真とそっくりだったことも付けくわえました。
でも、そのとき教室には自分と女の子だけしかいなかったことは、言いませんでした。休み時間にひとりで本を読んでいることは、黙っていたかったからです。
お父さんは、話を聞きおわると、トモコちゃんの顔をじっと見ながら何かを考えているふうでしたが、しばらくしてこう言いました。
「それは、たぶんお母さんだよ」
「お母さん?」
「お母さんは、女の子のすがたになって、亡くなる前にトモコのところに”さよなら”を言いに来たんだ」
「なんで、女の子のすがたになって来たの」
「トモコは、最近、休み時間にひとりで本を読んでるんだろ」
トモコちゃんはびっくりしました。
「担任の秋田先生が、電話でそのことを教えてくれたんだ。それを知って、お父さんとお母さんはとても心配したけど、一時的なことかもしれないし、しばらくは様子をみようということになったんだ」
トモコちゃんは、お父さんの顔をじっと見ています。
「ひとりで教室にいるところを見られるのを、きっとトモコはいやがるだろうとお母さんは考えたんだね。だから、自分だということを隠すために、子供のすがたになって、トモコの前に現れたんだと思う」
そして、ひとりで本を読むのも楽しいけれど、友だちと一緒に読むのはもっと楽しいことを、お母さんはトモコちゃんに、さよならと一緒にそのことも伝えるために来てくれたのでした。
トモコちゃんは、ベッドから起きあがると、自分の部屋にいき、ランドセルの中から、女の子が残したノートのきれはしを取り出しました。
「さようなら ともこちゃん」
文字を見ているトモコちゃんのひとみから大粒の涙がこぼれ、紙の上にポタポタと音をたてて落ちました。
※
わたしはこの話を聞いて大泣きしたのを覚えています。児童むけとしては悲しい話ですし、オカルトじみており、今のわたしから見ればなんだか変なスジだなとも思いますが、わたしは当時、父のしてくれるこういった話に夢中でして、父の休日は夜ごとベッドに潜入してお話をねだったものです。
なお、このような「生き霊」を題材にしたストーリーの代表例は、源氏物語の中にある、光源氏のかつての愛人・六条御息所が、源氏の正妻であり懐妊中の葵の上を生き霊になって憑り殺す話ではないでしょうか。この話のように生き霊というものは、通常はネガティブな存在、ようするに「悪役」として物語の中に登場するものです。しかし、父のお話では娘への愛情に満ちた「善玉」として現れます。そして父は、このように「生きている人が魂になって愛しい人に会いに行く」話をたくさんわたしにしてくれました。
この会場にわたしの本の読者の方がおられれば、気づいておられるかもしれませんが、これが今、わたしの小説の大切なモチーフのひとつになっています。ようするにわたしの作家活動とは、もう決して聞くことが出来ない父のお話の新作を、自分で書いているようなものなんです。
「読書体験」について話をするようにと主催者の方のご依頼を受けたにもかかわらず、みょうな話になってしまい申し訳ありません。わたしのお話は以上になります。ご静聴いただきまことにありがとうございました。 (拍手)
作品名:わたしの読書体験 作家名:DeerHunter