愛を抱いて 13
次の朝、私は洗面所へ行く途中、廊下で彼女を呼び止めた。
「あら、お早う…。」
周りには、他に誰もいなかった。
「ちょっと、訊きたい事があるんだが…。」
私は彼女に近づいた。
「君は、何か俺の事で、怒ってるのかい?」
「どうして…?
私、何も怒ってやしないわ。」
「気に入らない事があるのなら、はっきり云ってくれ。」
「何もないわよ。
鉄兵、少し変じゃない…?」
「変なのは、君の方だろう…。」
彼女と私は、合宿に入ってから初めて、二人きりで口を利いた。
「まあ、いいや…。
ところで、金沢はどうする?
一応、ホテルの予約は取っておいたけど…。」
微かに、彼女の表情が変化したのを、私は見逃さなかった。
「行きたくなくなったかい…?」
「予約しちゃったの…?
私、金沢へ行ってみたいとは云ったけど、はっきり鉄兵と一緒に行くっていう約束は、しなかったはずよ。」
私は内心、腹が立って来ていた。
「行くのか、行かないのか、どっちだい?」
「…5日は、友達と約束してるの…。」
「そう。
解った…。
勝手にしてくれ…。」
吐き捨てる様に私は云って、洗面所へ歩き出した。
彼女の心が、いつ私から離れてしまったのか、私は考えていた。
(北海道から帰って来た時、彼女は自分から求めて来たではないか…。
やはり、お互い帰省していた間に冷めてしまった、というわけか…。
しかし、彼女は、金沢へ行くとはっきり約束はしなかった、と云った…。
そう云われれば、そんな気がしないでもないが…。
あの時、いや、もっと前から、彼女は冷めてしまっていた、と云うのか…?
いや、そうは思えない…。
やはり…。)
美穂の突然の心変わりは、少なからず私に動揺を与えた。
合宿後半の2日間を、私は透明な気持ちで過ごした。
それは、失恋に変わりなかった。
しかし、何よりも問題なのは、ホテルのツイン・ルームの予約であった。
私は旅行のクーポン券を視つめた。
料金は既に全額、旅行代理店で支払ってあった。
(誤算と云うより、振って湧いた災難だな…。)
私が描いた、夏休みの最後を飾る明るい計画は、音を立てて崩れて行った。
私は淳一に事情を話し、一緒に金沢へ行かないかと誘った。
「彼女の代役か…。
いいぜ。
失恋旅行に付き合ってやろう…。」
淳一は、急いで東京へ帰る必要もないからと、快く承諾してくれた。
「でも、ホテル代は、ちゃんと払えよ。」
私は云った。
「何だ。
ただじゃないのか…。」
「当たり前だ。」
「金を回収するために、俺を誘ったのか?」
「他に理由があるのか?
誰が好き好んで、男同士の二人旅をする…?」
明日は合宿最終日という5日目の夜、民宿の大広間で盛大に全員参加の打ち上げコンパが行われた。
私は、美穂は実は私にやきもちを妬かそうとして、わざと演技をしているのではないかと、心の片隅で考えていた。
今夜か明日になって、「意地悪して御免なさい。一緒に金沢へ行きましょう。」と私に云うつもりかも知れないと、微かに期待していた。
私は、彼女が私の方に視線を送りはしないかと、それとなく彼女の様子をうかがった。
しかし、彼女の態度は前夜と変わりなかった。
横沢にベッタリ寄り添い、仲睦まじく二人で酒を呑んでいた。
彼女が私の方を視る気配はなかった。
私を無視するというより、もはや私の事など、意識にないという様子だった。
誰かが座敷の中央に出て、春歌を唄っていた。
私はまだ、彼女にフラれたという事が信じられない気持ちだった。
いや、それを実感できないでいた。
何故なら、彼女は全く普段の彼女だった。
ただ、寄り添っている男が、私ではなかった。
〈二六、夏合宿[後編]〉