愛を抱いて 13
25. 夏合宿〔前編〕
階段に差し掛かると、ベルが鳴り始めた。
私はバッグを抱え、息を切らせながら走り続けていた。
ホームに駆け上がると「あっ、来た! 早く!」と言う叫び声がして、私は「ひかり」の一番近いドアに飛び込んだ。
私の背後で、ドアは静かに閉まった。
その朝、私は香織の悲鳴で眼を覚ました。
起床を全く彼女に任せていた私は、前日までの疲れのせいで、安眠の底を漂っていた。
香織が寝過ごすという事は非常に珍しかったが、彼女も前夜の、久し振りとはいえ4回に及ぶ連続遊戯に疲れていたのかも知れない。
8月30日、わが「徒歩旅行愛好会」は、夏合宿に向けて、東京駅を出発した。
夏合宿と名打たれたそれは、ただの夏の団体旅行だった。
5泊6日の旅で、民宿を渡り歩き、昼間は観光、夜はコンパという内容を繰り返すのである。
81年度の行先は能登半島で、参加人数は30名程度であった。
名古屋で新幹線を降り、特急に乗り換えた。
サークルの中には、旅行する場所について、前もって書物を読む等して知識を携えたり歴史を勉強しておいたりする者もいたが、私などは予備知識は愚か能登という以外、自分が何という地名の処へ行こうとしているのか全く解らなかった。
「おい、運試しに遠征して来ないか?」
私は、向かい合って座っている、淳一に囁いた。
「いいぜ。」
私と淳一は席を立った。
「あら、二人揃ってどこへ行くの?」
千絵が訊いた。
「ちょっと、トイレへ…。」
「…電車のトイレに二人で入るの?
仲の良い事で…。」
千絵は疑わしげに云った。
ほとんどサークルの貸切状態となっている車輌を抜け出してから、私は云った。
「道具はちゃんと持って来ただろうな…?」
「もち…。」
淳一はポケットに忍ばせたトランプを示した。
夏休みも終わりかけの時期であったが、車内には結構、旅行風の若い連中がいた。
そして、若い女性も沢山見かけた。
「すいません、トランプしませんか?」
唐突に、私は声をかけた。
明るい服装をした二人の女性は、驚いた様に私の方を見上げ、それから、お互いの顔を見合わせた。
「僕等、旅に出たはいいんだけど、もう暇で今にも死にそうなんです。
迷惑でなかったら、どうか助けると思って、僕等とトランプして下さい…。」
空かさず、淳一がフォローを入れた。
二人連れの女はクスクス笑い出した。
「いいわよ…。」
旅の挟間で見知らぬ女性と会話する事を至福とする我々にとって、団体であるという事は、なぜか心に余裕を与えた。
列車の中では、トランプが最強の武器になった。
「何だ、じゃあ、俺達と同じ駅で降りるんじゃない…。」
淳一が云った。
我々は「大富豪」をやりながら、会話を盛り上げる事に労を費やした。
彼女等のその夜の宿泊地は我々と同じ処だった。
(この旅行はツいてるな…。)
私は内心そう思った。
しかし、まだ旅の序盤であり、運を蓄えるためにも、彼女等の宿を聞き出して押し掛けて行く約束を取り付ける、という様な深入りは避けた。
目的地が近づき、私と淳一は、我々が泊まる民宿の名前を教えて、 「良かったら、遊びにお出でよ…。」 と、誘いの言葉を残して、引き揚げた。
「彼女達、来るかな…?」
淳一が云った。
「さあな…。
どっちでも、いいさ…。」
私と淳一のコンビは、行く先々の観光地で次々と女性を漁った。
そこでは、カメラが必需品だった。
「あれに、しよう…。」
淳一が云った。
向こうから、若い女が二人、こちらへ歩いて来るのが見えた。
その二人連れが我々のそばまでやって来た時、淳一はスッと彼女達に近づいた。
「すいません…。
ちょっと、シャッターを押してもらえますか…?」
「いいですよ。」
彼女等はそれぞれ、ピンクと黄色のサマー・セーターを着ていた。
ピンクを着た女の方が、淳一からカメラを受け取った。
「オート・フォーカスですから…、押すだけでいいです。」
私と淳一は海をバックに並んで、無駄な写真を一枚撮った。
「そうだ…。
折角だから、良ければ一緒に写真に入ってもらえません…?」
私は云った。
淳一がカメラを持ち、私は彼女等と寄り添ってポーズを取った。
「はい、チーズ…。」
次に淳一が、彼女達の間に入った。
「淳一。
表情が硬いぞ…。」
私はファインダーを覗きながら云った。
「もっと柔らかく、スマイルを作れよ…。」
淳一は歯を出した。
「もっと自然に笑えねえのかよ…?」
私はカメラから顔を離した。
「美しい女性のそばだと、緊張してしまうんだ。」
私は再びファインダーに眼を近づけ、シャッターを押しかけて、また云った。
「お前、髪が乱れてるよ。」
淳一は自分の髪に手櫛を入れた。
私はシャッターを切ろうとして、またカメラを下げた。
「おい、顔に鼻クソ付いてるぞ…。」
「えっ…?」
淳一は手で自分の顔を触った。
「あの…、鼻クソ付いてます?」
彼は女達に尋ねた。
「いいえ…。」
彼女等は笑いながら答えた。
「じゃあ、撮るぞ。」
私はカメラを構えたが、またしても顔を上げた。
「淳一…、」
「おい、いい加減にしろよ。」
淳一は怒った様に云った。
「いや、ポーズがつまらないからさ、せめて、肩ぐらい抱いて差し上げろよ…。」
「そうか…?」
淳一は二人の肩を抱き、私はシャッターを押した。
淳一はピンクと、私は黄色と肩を並べて歩いた。
「何処から来たの…?」
私は訊いた。
「東京…。
あなた達は…?」
「風の街から…。」
「そう。
東京ね…。」
「どうして解った…?」
「だって、東京弁で喋ってるじゃない…。」
東京を出る時には雨模様だったが、能登へ着いてからはずっと晴天に恵まれた。
眼を凝らさないと、空と海の境がよく判らなかった。
「私、日本海を視るの、生まれて初めてなのよ。」
彼女は云った。
「やっぱり、太平洋とは違うのね…。」
「そうかい…?」
「色も香りも、全然違うわ。
きっと海の上を吹いている、風が違うのね…。」
「君は俺と違って、旅をする資格のある人間だね。」
「どういう事…?」
「旅心があるって事さ。
俺には、下心しかない…。」
バスの出る時間になった。
彼女達は「悪いのだけれど、写真を送って頂けないかしら?」と云い、我々は承知して二人の住所と電話番号を書いてもらい、別れを告げた。
合宿3日目の夜、海辺の砂浜で花火大会が行われた。
海の上に、岩だけでできた小さな島が見えた。
砂浜からその島まで、細い岩の路が続いていた。
陸に据えられた1本の大きなライトが、岩の路を照らし出していた。
「あの島まで行けると思うか?」
私は淳一に云った。
「どうだろう…?
でも行ってみたいな。」
「ちょっと…、馬鹿な事考えるのは、よしなさいよ…。」
千絵が云った。
しかし、私と淳一の心は既に高鳴っていた。
危険だから止めた方がいいと言う、サークルの皆の声を無視して、我々二人は出発した。