愛を抱いて 11
21. 朝のハンバーグ
ヒロシはその年の3月まで、柳沢と同じ伊勢崎東高校に通っていた。
高校時代、ヒロシと柳沢は、同じ高校の同級生で作っていた「エトランゼ」というアマチュア・バンドのメンバーでもあった。
高校2年の時、ヒロシは自分達のコンサートで、それを友達と観に来た、伊勢崎女子高校に通う世樹子の存在を初めて知った。
そして彼女を好きになった。
ヒロシは彼女に手紙を書き、知り合い筋に、渡してくれる様頼んだ。
手紙は真面目な恋文であった。
しばらくして、世樹子の近い友人であると言う女が、ヒロシの処へやって来た。
その女はヒロシに云った。
「見ず知らずの女の子に、冗談であんな事するなんて酷いわ。
中には傷つく娘だっているのよ。
特に彼女は真面目な娘なんだから…。
とにかく、もう2度と彼女に近づかないでよね。」
その女は、怒りと軽蔑の眼をヒロシに浴びせた後、さっさと帰って行ってしまった。
ヒロシには全く覚えのない事だったが、手紙が彼女の手に渡る途中に、誤解あるいは陰謀が介在したらしかった。
手紙が実際、彼女の手に渡ったかどうかも怪しかった。
その出来事で、ヒロシは彼女を断念してしまった。
「何でまた、あっさり諦めちまったんだい?」
私は彼に、そう訊いた事があった。
「何となく、やっぱり駄目だったんだなぁって思えて…。
元々、あんな素敵な娘と、自分が付き合えるはずはないっていう感じがあったから…。
何れにしろ、やって来た女の剣幕からして、俺が彼女にあの後近づく事は不可能に近かったさ。」
と彼は云った。
結局、事の真相は、ヒロシには解らず終いだった。
そして、高校を卒業し、東京の大東文化大学に進学した彼は、三栄荘において世樹子と再会した。
世樹子の態度は、手紙の件については覚えてないか、知らない様に、ヒロシには映った。
私がこの話を柳沢から聴いたのは、中野ファミリーを結成して2ヶ月程経った頃だった。
私は香織に、真相を知っているかと尋ねてみた。
「私、フー子とは1年の時から仲良かったけど、世樹子と仲良くなったのは、3年でクラスが一緒になってからだもの。
そんな事があったなんて全然知らなかったわ。
フー子も多分、知らないと思うわよ。」
私は、それとなく世樹子から聞き出してくれる様、香織に頼んだ。
しかし香織は、 「訊いてみたけど、何か要領を得なかったわ。 喋りたくないか、世樹子も知らないんじゃないの…?」 と報告した。
ヒロシは私に云った。
「好きかと訊かれれば、俺は今でも彼女の事を好きさ。
ただ俺は、彼女がこの世に存在しているだけで嬉しいんだ。
しかも今は、何度も彼女を間近に視る事ができる…。
それ以上を望むのは、強欲過ぎるよ…。」
私はもう一度、今度こそ彼女にはっきり気持ちを伝えて、挑戦してみるべきだと云った。
「彼女を手に入れる事については、もう前にNOTという答が出てるんだ。
俺にとって彼女は、永遠の心の恋人なのさ…。」
隅田川へ行った翌日、私は香織に「友達の処に金を借りに行って来る。」と云って、午後から部屋を出た。
そして沼袋から西武新宿線に乗り、山手線、西武池袋線と乗り換えて、東長崎の美穂の部屋を訪れた。
「北海道は、どうだった?」
「良かったわよ。
とっても…。
地平線を視た時は、日本にいる気がしなかったわ…。」
美穂は、御土産をテーブルの上に並べながら云った。
「香織さんは、元気?」
「ああ。
…らしいな。
それでさぁ、俺達の旅行の事だけど…。」
「あら、本気だったの…?」
「当たり前だろ。
それとも、君は気が変わったのかい…?」
「そっちの気が変わると、思った…。」
現在、壊滅している私の経済が、近い将来一気に回復して更に大きな黒字を伸ばす、様な事は到底考えられないため、私は節約的という点に的を据えて、ある旅行を計画していた。
「夏合宿の後でさ、二人で金沢に泊まって帰るというのは、どうだい?」
その年のサークルの夏合宿は、能登半島一周旅行に決定して、既に細かい予定も組まれていた。
「金沢か…、行ってみたいな。」
「合宿の最終日が七尾だからさ、そこでみんなと別れて、俺達だけ、もう1泊するのさ。」
「だけど、1年生が勝手な行動をして大丈夫かしら…?」
「平気さ。
修学旅行じゃあるまいし…。
でも仲好い先輩に、七尾で解散する様かけ合ってみるよ。」
私は、生きているうちに一度は訪れるべき街、というのを考えた事があって、それは長崎、萩、松山、尾道、神戸、金沢、横浜、札幌であった。
その中で私がまだ行った事のないのは、金沢と札幌だった。
なお東京に来てから、私は訪れるべき街に、群馬の伊勢崎を加えていた。
「今日は泊まって行けるんでしょ?
何が食べたい?」
「いや、夜から高校の時の友達ん処へ行く用事があるんだ。」
「そう…。」
「でも夕食だけ御馳走になってから、行こうかな…。」
「まあ、随分調子が良かぁない?
でも、いいか…。」
美穂は座ったまま両腕で自分の身体を支え、腰を私の方へ滑らせると、片手を軽く私の膝の上に乗せた。
「ねえ…。」
私は彼女にキスをしながら、静かに抱き寄せた。
二人は少し中腰になってから、抱き合ったままベッドの上へ移動した。
美穂の部屋を出ると、私はまた電車に乗り渋谷へ向かった。
渋谷で東横線に乗り換え、中目黒で降りた。
時刻は午後8時を少し廻った頃であった。
中目黒駅のすぐ近くのワン・ルーム・マンションに、川元は住んでいた。
「俺だ…。」
私はインタホンに向かって云った。
「よお…。
7時頃とか云っといて、遅かったじゃねえか…。」
「ああ…。
女の処で飯を食ってた。」
「香織ちゃんか…?」
「いや。
香織は今、俺の部屋に居る。
同じ大学の女だ…。」
「なる程…。
着々とストックは増えてる様だな…。」
「まあ、ぼちぼちって所だ…。
ところで、金を貸してくれ。」
「何だ、失敗したのか?
だから腕を奢らず、ちゃんとコンドームを使えって常々…。」
「違う。
生活費がパンクしただけだ。」
川元は冷蔵庫から氷を取り出して来て、グラスの中へ落とした。
「こないだ、栗本はどうだった?」
「ああ…、タクシーに乗ってからも眼を覚まさなかったんで、俺の部屋に泊めた。」
「ほお…。」
「あまり云いたくない事だが、誤解を防ぐために付け加えておくとな、部屋に香織達が来てたんだ。」
「…それは大変だったな。」
「大変だったのは、次の朝さ…。」
我々は深夜まで酒を呑んだ。
午前零時を過ぎた頃、二人で外へ出て、牛丼を食べた。
戻ってから、またしばらく酒を呑み、川元はベッドで、私はカーペットの上に布団を敷いてもらい眠った。
翌日朝遅く、私は川元に借りた3万円を財布に入れて、彼の部屋を出た。
沼袋で電車を降りて、前夜の酒のせいで渇いた喉をポカリスエットで潤しながら、三栄荘へ歩いた。
入口を入ると、2階の私の部屋では掃除機の音がしていた。