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愛を抱いて 10

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19.隅田川花火大会


 8月1日土曜日の夕方、世樹子が私の部屋へやって来た。
「あら、鉄兵君一人?」
「ああ。
香織なら、友達に逢う約束があるとか云って、昼前に出かけた。」
「そう。
残念ね。
二人の甘い生活が覗けると思ったのに…。
香織ちゃん、ここへ帰って来るの?」
「いや、6時半に新宿で待ってるって。」
世樹子は座ると、部屋を見回す様にした。
部屋の壁には女物の洋服が掛けられ、サイド・ボードの上には沢山の化粧品が置かれていた。
ドアの処の板間には、鍋やフライパンが新しく置かれていた。
「この部屋も、愛の巣になっちゃったわね。
眼が痛くなりそう…。」
本棚の一番下には、仕舞い忘れたコンドームの箱が置かれていた。
「私は一人になってしまって淋しいけれど、香織ちゃんの幸せのために我慢するわ。
どう? 
同棲生活の味は…。」
「君は若干、勘違いをしている。
俺が仕送りを使い果たしてしまったんで、彼女に生活の面倒をみてもらってるだけさ。」
「そうらしいけど、香織ちゃんは嬉しそうだったわよ。」
「夏休みになったのにどこへも行けなくて、きっと怒ってるさ。」
「そんな事ないわよ。
どこへも行けなくったって、鉄兵君とずっと一緒にいられる方が嬉しいに決まってるわ。」
「でも俺の前で、『やっぱり男は、金を持ってなきゃ駄目ね。』とか云ってるし、俺の事を『鉄ヒモ』って呼ぶんだぜ。」
世樹子は笑った。
「それは仕方ないわよ。
本当に鉄兵君は、ヒモになってるんだもの。
だけど香織ちゃんは偉いわ…。
あんな事があった後でも、自分から逢いに行って、おまけに、こうして鉄兵君の世話までして…。
本当に鉄兵君の事が好きなのね…。
香織ちゃんに感謝してる?」
「金を貸してくれた事には、充分感謝してる。」
「あら、駄目よ。
香織ちゃんの優しさと深い愛情に、感謝しなきゃ…。」
「愛情ではなくて、同情だと思うが…。」
私は煙草に火を点けた。
「愛情よ。
話してあげるから、聴きなさい。
先週の木曜日、香織ちゃん酷い顔して帰って来たのよ。
青白い顔して部屋に入って来て、私が『どうしたの?』って訊いても、初めは何も答えてくれなかったわ。
座って、『私、今から泣くと思うけど、気にしないで。』って云ったかと思うと、本当に声を出して泣き出しちゃったの。
私、びっくりしたわ…。」

── 夜になって、やっと少し冷静になった様子の香織は、世樹子に云った。 ──

「その女の子と部屋で向かい合ってるうちに、頭に血が上って来て、帰り際に、捨て台詞みたいな事を云ってしまったのを後悔してるって云ったわ。
香織ちゃんが何て云って帰ったのか、私は知らないけど、香織ちゃんはね、鉄兵君の態度が気に入らなかったって。
その女の子が浮気の相手なら、まだ許せるって。
いえ、そうならばかえって嬉しいくらいだって云ったわ…。
でも、女の子と自分は同じ立場にある事が分かって、それが頭に来たって…。
香織ちゃんは、そう云ったの。
自分が女の子と同等の扱いを受けた事が、悔しいって云ったわ。
だけど次の朝に、全然寝てない様な顔をして、香織ちゃんはまた云ったの。
よく考えてみたけど、やっぱり自分はやきもちを妬いてるって…。」

── 香織は云った。
「私は、あの人に一番思われる存在でありたいと願ってるけど、それをあの人に求めるのは、間違いね…。
相手が自分を一番愛してくれる事を欲するのは、我儘よ。
いえ、それを願う事さえ、我儘よね。
行き場のない願いだわ。
ジェラシーは愛ではなくて、…利己心よ。
愛されたいと思うのは、愛情からじゃないの。
そこにあるのは、我儘だけだわ。
我儘は、不条理よね。
恋愛に義務など、本当は存在しないのよ…。」
「願う事も、いけないの…?」
世樹子は哀しそうな表情をして、訊いた。
「そうね。
でも私が、自分の恋愛に関しては、そう思う事にしたっていうだけよ。
他人も、そうであるべきなんて、云わないわ。」
「…鉄兵君を許してあげるの?」
「許す、許さないっていう命題は発生しないって事よ。
要するに、あの人が何をしても、私はそれを責めれないって事ね。
そのかわり、私がどうするかは、私の勝手で、あの人に口出しをさせないわ。」
「…どうするの? 
鉄兵君を見捨てちゃうの…? 
…別れちゃうの?」
世樹子は不安めいた声で訊いた。
「愛されたいというのは、我儘だけど、愛したいと思うのは、我儘ではないわ。
私が、あの人をずっと愛していたいと願う事は…、たとえそれが、あの人にとって迷惑であっても…、不条理では、決してないわ。」
香織は云った。 ──

「…解ったでしょ? 
香織ちゃんは鉄兵君への愛情を、あんな事があって…、改めて自分の中に発見したのよ。
そして、愛を抱いて、再びこの部屋に来たのよ…。」
世樹子の話を、私は煙草を吹かしながら聴いていた。
「私、鉄兵君も香織ちゃんを一番愛してると思うわ。
私には解るの…。」
「それは希望的観測だな…。」
「違うわ。
愛してるから、お金の面倒をみてもらってるのよ。」
「やはり、君は勘違いをしている。」
「どうしてよ?」
「君はハッピー・エンドが好きらしいけど、俺は…、他の面も勿論そうだが…、特に恋愛に関しては、最低の男だ。」
「もういいわ。
そんな風に云っても、私には解ってるの。
鉄兵君は香織ちゃんを愛してるわ。」
ふと気がついて、私と世樹子は時計に眼をやった。
「…遅いわね。
ヒロシ君…。」
「遅すぎるよ。
たく、何やってんだろ? 
あいつ…。
世樹子が来るって知ってて、遅れるなんて、おかしいな…。」
云ってから私は、世樹子の表情を伺った。
彼女は聴こえない振りのつもりか、無表情だった。

 「遅いわよ。
もう7時になるじゃない。」
アルプス広場にやって来た3人を見つけて、香織は云った。
「ヒロシが、いけないんだ。」
「許しておくんなせえ! 
おかみさん!」
「この人だけ、置いて来れば良かったのに…。」
我々は再び電車に乗り、隅田川花火大会を観に、浅草橋へ向かった。

 川原の周辺は物凄い人出だった。
土手の上で涼みながら、のんびり花火を眺めるという光景を想像していた私は、見当違いも良い所であった。
立ち止まって花火を観る余裕さえなかった。
我々は人波の流れに任せて歩いた。
「部屋でテレビ中継を視てた方が、情緒があったな…。」
私はそう云ったが、誰も返事をしなかった。
横を視ると、ヒロシではなく、全く知らない人間が横目でチラリと私を視た。
振り返ると、香織と世樹子の姿も消えていた。
周囲を見回したが、3人の姿はなかった。
私は仕方なく、周りの知らない人々と同じ方向に脚を動かした。
(江戸っ子でもないのに、何で隅田川の花火なんか観に来たんだろう…?)と半分後悔しながら歩いていた時、 「鉄兵君。」 と呼ぶ声が聴こえた。
声がした方を振り向くと、人込みの中に世樹子が立っていた。
作品名:愛を抱いて 10 作家名:ゆうとの