不世出の水中舞踏家 水上定落創作伝
水中舞踏。かつては見世物小屋の地味なオブジェでしかなかったこの芸は、浅草十二階の崩壊とともに、一人の天才によって、見世物小屋から解き放たれた。
井戸に毒を入れたとか入れないとかいう騒動の中、水中劇の創始者として名を残す水上定洛が、井戸という井戸に潜っては、ただ一人で、舞踏を行ったのである。
騒乱の鎮圧にかけつける憲兵隊と一悶着おこることもあったが、井戸に潜る彼の顔、白装束を身につけた姿とは神々しさすら纏い、
「行者様が井戸を浄化してくださるのだ」
という風評が広がるほどだったので、さしもの憲兵隊も彼の検束を断念せざるを得なかったのであった。
しかし、実際はあちこちで起こる混乱の爪あとの事態収束に忙しかったため、民衆を先導するでもなく、国家にたいする反逆にもあたらないということで、「我関せず」との判断が下されていたのだというのが、本当のところのようである。
さて、水上の舞踏がいかなるものであったかを記した文献は少ない。
井戸という限定された場所でのパフォーマンスであり、観客もそこで行われている事をはっきりと見ることは出来なかったからである。
確かなところでは、大正十二年九月十六日、憲兵隊甘粕正彦らによって、大杉栄とその妻伊藤野枝、さらに大杉の甥である橘宗一らが殺害された事件の際、それらの遺体が投げ込まれた麹町の古井戸に水上が潜っており、その日の事を水上は手帳に記していた。
古井戸に放り込まれた三つの扼殺体の直撃を、水上は研ぎ澄まされた感覚によって回避した。そして、まだ暖かい死体が音をたてて井戸の底へ沈んでいく光景を、
「まるで蝶が飛び戯れているようであった」
と書き記した水上の感覚を、不謹慎だと断罪するのは常人の意識であろう。しかし、舞踏家水上定洛は、死体のあまりに自由な舞踏に衝撃をうけたのであった。
「命なき物体として、自然法則に従うのみの体が、水によってかくも美しき形態を見せる。自分の舞踏はまだ人間のもっとも低い煩悩に拘束されている」
水上の舞踏は、この日を境に「精神性を殺すことで獲得される精神への飛躍」と遂げることとなるのである。
そして、この舞踏はいよいよお披露目となる。あの井戸での開眼から一年後。築地の小劇場での柿落としでの事である。
土方与士は、かねてより水上定洛の噂を聞き及んでいた。そして大正十三年六月十三日の、文壇、劇壇人を招いて、ショウは開催は開催された。
定洛水中劇。「オフェリアはナルキッソスのかいなを抜けて」である。
舞台は円筒形の巨大なガラスシリンダーだった。階段状に設けられた四百の客席が、観客の視線角度を綿密に検討され小山内薫を始めとする劇団員の協力によって寸分の狂いもなく設置された。
舞台は二分四十秒。背景は無地のスクリーンのみ。本来の舞台上にはおびただしい様々なライトが並べられ、完璧なタイミングで操作された。
中等物理程度の知識があれば、水がガラスにも鏡にもなる事は自明であるし、例えば、食塩水とすれば比重が変わり、通常ならば考えられない浮力の芸当を見せることもできる。水上は独りで井戸に潜っていた頃から、シンプルに見える舞台に秘められた無限の可能性を検討しつくしていた。それはプースカフェ(比重と色の異なる酒を静かに注いで何層にもしたカクテル)やシャボン玉の原理に応用されている。
けだし、創始者の頭が最も進んだ頭である。というのは名言である。事実上、水中舞踏の技術的側面において、原理的に水上が見落としていたものは何一つ無い。
水上はただ独りでこの分野を開拓し、芸術として認知させた。だが、この偉大な業績に比して、その生涯はじつにあっけないものであった。
激動の時代。必要な舞台装置を備える劇場も少なく、劇場公演はそれから数えるほどしかなされなかった。
元号が変わると、向島に八月に出来たばかりの同潤会アパートへと引っ越しているので、貧困にあえいだということではないようだが、表現者が表現の場を得られないという事は何とも絶えがたい苦痛だったはずである。
この年の九月に封切られた衣笠貞之介監督の映画、「狂った一頁」に水上の姿がちらりと映った後、彼は事実上表舞台から姿を消した。
「体一つ。鍛えぬいたこの体一つあれば良い。私は舞台装置のサイズが自らのサイズだという心得違いをしていたようだ。私が舞台だ。私が劇場だ」
水上はこのころの手帳に右肩上がりの力強い筆跡でこう書き記している。
水上は弟子もとらず、この舞踏を真に受け継ぐ者は現れなかったようである。初心に戻った水上は、その冬から江戸川、神田川、利根川、荒川などで舞踏を行った。
そして、運命の「霞ヶ浦一ヶ月連続演劇」に挑んだのである。
そこには観客の姿は無く、やせこけた水上は、髪を振り乱し、髭は伸び放題の風貌で、真っ白な褌一丁を身につけただけのいでたちで、踊り続けた。
この常軌を逸した行動を、新感覚派の横光利一、マキノプロダクションの牧野省三、月下の一群を発表したばかりの堀口大学、雑誌キングの企画者野間清治の友情をもってしてもとめることは出来なかったのである。
「何ゆえか。水上定洛は仙人の風貌で霞ヶ浦の霧となり、時として竜神の到来を思わせる水柱となりて、もはや人間ではない、かといって人間を離れた超越者でもない何者かへと変化し、冬を体現し、水を体現し、凛として精神そのものを、浦の水一滴にまで浸透せしめた。定洛はこの霞ヶ浦そのものであった。この冬そのものであった」
と、毎朝新報の貴社は記録している。それは壮絶な荒行であった。
昭和二年。三鷹の天文台で新しい小惑星が見つかったという記事を読んで、
「宇宙だ。宇宙には重力が無いという。それは水の中と同じく過酷で、美しい広がりであるのに違いない。水中は宇宙に通ずる。この私がソラを体現する」
と高揚した調子の文章を残した日から数週間後、「世界風邪」として恐れられた流感に感染。三十七万人を超える患者の一人が水上であった。
最新式の吸入器を喉の奥にまで突っ込んだ水上は、
「宇宙とやらに出るときも、やはりこういった物をつけるんだろうが、どうも美しくないね。もっとこう、モダンにならないものかね」
との筆談を最後に今生の別れを告げた。
享年三十二。早すぎる死であった。
この水中舞踏の創始者水上定洛の死は、その直後に起こった芥川竜之介の自殺に掻き消されてしまった。
しかし、昭和四年七月十日、カジノ・フォーリーという、浅草の水族館の二階に出来た小劇場で旗揚げした劇団によって、いささか誇張された形で、パロディーされることとなるのである。
榎本健一は、一回の水族館で行われた舞踏を見たことがあったのである。だが、稀代の喜劇役者エノケンの才覚は、水上の悲壮ともいえる精神をエログロナンセンスへと変質させ、それによって大衆は水上の存在を、知ることとなるのである。
もはや、水上の舞踏は、このポンチ絵化した芝居でしか見ることが出来ない。だが、それは榎本健一の劇人としての使命感によるものなのである。
井戸に毒を入れたとか入れないとかいう騒動の中、水中劇の創始者として名を残す水上定洛が、井戸という井戸に潜っては、ただ一人で、舞踏を行ったのである。
騒乱の鎮圧にかけつける憲兵隊と一悶着おこることもあったが、井戸に潜る彼の顔、白装束を身につけた姿とは神々しさすら纏い、
「行者様が井戸を浄化してくださるのだ」
という風評が広がるほどだったので、さしもの憲兵隊も彼の検束を断念せざるを得なかったのであった。
しかし、実際はあちこちで起こる混乱の爪あとの事態収束に忙しかったため、民衆を先導するでもなく、国家にたいする反逆にもあたらないということで、「我関せず」との判断が下されていたのだというのが、本当のところのようである。
さて、水上の舞踏がいかなるものであったかを記した文献は少ない。
井戸という限定された場所でのパフォーマンスであり、観客もそこで行われている事をはっきりと見ることは出来なかったからである。
確かなところでは、大正十二年九月十六日、憲兵隊甘粕正彦らによって、大杉栄とその妻伊藤野枝、さらに大杉の甥である橘宗一らが殺害された事件の際、それらの遺体が投げ込まれた麹町の古井戸に水上が潜っており、その日の事を水上は手帳に記していた。
古井戸に放り込まれた三つの扼殺体の直撃を、水上は研ぎ澄まされた感覚によって回避した。そして、まだ暖かい死体が音をたてて井戸の底へ沈んでいく光景を、
「まるで蝶が飛び戯れているようであった」
と書き記した水上の感覚を、不謹慎だと断罪するのは常人の意識であろう。しかし、舞踏家水上定洛は、死体のあまりに自由な舞踏に衝撃をうけたのであった。
「命なき物体として、自然法則に従うのみの体が、水によってかくも美しき形態を見せる。自分の舞踏はまだ人間のもっとも低い煩悩に拘束されている」
水上の舞踏は、この日を境に「精神性を殺すことで獲得される精神への飛躍」と遂げることとなるのである。
そして、この舞踏はいよいよお披露目となる。あの井戸での開眼から一年後。築地の小劇場での柿落としでの事である。
土方与士は、かねてより水上定洛の噂を聞き及んでいた。そして大正十三年六月十三日の、文壇、劇壇人を招いて、ショウは開催は開催された。
定洛水中劇。「オフェリアはナルキッソスのかいなを抜けて」である。
舞台は円筒形の巨大なガラスシリンダーだった。階段状に設けられた四百の客席が、観客の視線角度を綿密に検討され小山内薫を始めとする劇団員の協力によって寸分の狂いもなく設置された。
舞台は二分四十秒。背景は無地のスクリーンのみ。本来の舞台上にはおびただしい様々なライトが並べられ、完璧なタイミングで操作された。
中等物理程度の知識があれば、水がガラスにも鏡にもなる事は自明であるし、例えば、食塩水とすれば比重が変わり、通常ならば考えられない浮力の芸当を見せることもできる。水上は独りで井戸に潜っていた頃から、シンプルに見える舞台に秘められた無限の可能性を検討しつくしていた。それはプースカフェ(比重と色の異なる酒を静かに注いで何層にもしたカクテル)やシャボン玉の原理に応用されている。
けだし、創始者の頭が最も進んだ頭である。というのは名言である。事実上、水中舞踏の技術的側面において、原理的に水上が見落としていたものは何一つ無い。
水上はただ独りでこの分野を開拓し、芸術として認知させた。だが、この偉大な業績に比して、その生涯はじつにあっけないものであった。
激動の時代。必要な舞台装置を備える劇場も少なく、劇場公演はそれから数えるほどしかなされなかった。
元号が変わると、向島に八月に出来たばかりの同潤会アパートへと引っ越しているので、貧困にあえいだということではないようだが、表現者が表現の場を得られないという事は何とも絶えがたい苦痛だったはずである。
この年の九月に封切られた衣笠貞之介監督の映画、「狂った一頁」に水上の姿がちらりと映った後、彼は事実上表舞台から姿を消した。
「体一つ。鍛えぬいたこの体一つあれば良い。私は舞台装置のサイズが自らのサイズだという心得違いをしていたようだ。私が舞台だ。私が劇場だ」
水上はこのころの手帳に右肩上がりの力強い筆跡でこう書き記している。
水上は弟子もとらず、この舞踏を真に受け継ぐ者は現れなかったようである。初心に戻った水上は、その冬から江戸川、神田川、利根川、荒川などで舞踏を行った。
そして、運命の「霞ヶ浦一ヶ月連続演劇」に挑んだのである。
そこには観客の姿は無く、やせこけた水上は、髪を振り乱し、髭は伸び放題の風貌で、真っ白な褌一丁を身につけただけのいでたちで、踊り続けた。
この常軌を逸した行動を、新感覚派の横光利一、マキノプロダクションの牧野省三、月下の一群を発表したばかりの堀口大学、雑誌キングの企画者野間清治の友情をもってしてもとめることは出来なかったのである。
「何ゆえか。水上定洛は仙人の風貌で霞ヶ浦の霧となり、時として竜神の到来を思わせる水柱となりて、もはや人間ではない、かといって人間を離れた超越者でもない何者かへと変化し、冬を体現し、水を体現し、凛として精神そのものを、浦の水一滴にまで浸透せしめた。定洛はこの霞ヶ浦そのものであった。この冬そのものであった」
と、毎朝新報の貴社は記録している。それは壮絶な荒行であった。
昭和二年。三鷹の天文台で新しい小惑星が見つかったという記事を読んで、
「宇宙だ。宇宙には重力が無いという。それは水の中と同じく過酷で、美しい広がりであるのに違いない。水中は宇宙に通ずる。この私がソラを体現する」
と高揚した調子の文章を残した日から数週間後、「世界風邪」として恐れられた流感に感染。三十七万人を超える患者の一人が水上であった。
最新式の吸入器を喉の奥にまで突っ込んだ水上は、
「宇宙とやらに出るときも、やはりこういった物をつけるんだろうが、どうも美しくないね。もっとこう、モダンにならないものかね」
との筆談を最後に今生の別れを告げた。
享年三十二。早すぎる死であった。
この水中舞踏の創始者水上定洛の死は、その直後に起こった芥川竜之介の自殺に掻き消されてしまった。
しかし、昭和四年七月十日、カジノ・フォーリーという、浅草の水族館の二階に出来た小劇場で旗揚げした劇団によって、いささか誇張された形で、パロディーされることとなるのである。
榎本健一は、一回の水族館で行われた舞踏を見たことがあったのである。だが、稀代の喜劇役者エノケンの才覚は、水上の悲壮ともいえる精神をエログロナンセンスへと変質させ、それによって大衆は水上の存在を、知ることとなるのである。
もはや、水上の舞踏は、このポンチ絵化した芝居でしか見ることが出来ない。だが、それは榎本健一の劇人としての使命感によるものなのである。
作品名:不世出の水中舞踏家 水上定落創作伝 作家名:みやこたまち