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はじまりはいつも 第1話 笑顔の行方

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僕にはその涙の理由がわからなかった。 
 
 
 第一ボタンまできっちり止めた学ランの首元は、相変わらず息苦しく、加えてもうすぐ春がやってくるとはいえ、まだまだ油断できない空気の寒さを感じながら、パイプ椅子に教師が言ういい姿勢という格好で、しばらくの自由を奪われる。 

 静まり返ったこの場所はただの体育館で、そこで行われているのは「卒業式」というただの通過儀礼で、賞状を受け取ったり、校歌を歌ったり、挨拶をしたりする形だけの出来事。だからそんなものにいちいち感情が動くはずもないし、ましてや涙を流すなんて馬鹿げてる。 本気でそう思っていた。 なのに......
 
 どうしてあの卒業生は、舞台の上であんなにも感情をあらわにし、声を震わせ、泣いているんだ? ただの答辞だろ? 書いた文章を読むだけだろ? 僕には不思議で仕方がなかった。 まるで自分と全く違う世界にいるような気がして、ここからその場所まで、ものすごく距離があるように感じた。 

 
 いつからだろう、自分を作るようになったのは。 人との付き合いも、何かに取り組む時も、ある程度が丁度いい。 深入りして、熱くなっても何もいい事なんかない。 期待した分、どこかで傷つき、馬鹿を見るだけだ。 それなら最初から、ある程度の距離を保ってそれに満足すればいい。 結局、その答えに行き着いた。 だから、僕は自分を隠し、つまり周りにとってのいい奴を演じた。 そこまで気持ちのこもっていない言葉と、いつの間にか洗練されてしまった作り笑顔のおかげで、周りからはよくこんな事を言われる。

「いつも笑顔の美少年」「何でも話を聞いてくれるいい奴」「いるだけで場がなごむ」

 それが周りから見た僕の姿だった。 教師からの評判もそこそこ良くて 
 
「君はどこに行っても、やっていけるよ」

 というお墨付きを頂いた。 けどそれはつまり場を乱さず、誰にでも意見を合わせるというだけ。 決して本当にいい奴なのではなく、周りにとって都合のいい奴という事ぐらいは、僕も承知の上で演じていた。 それと引き換えに、自分の意見や主張が少しぐらい薄れても今更、気にならない。 ただこの距離感が楽だった。   

 特別目立つ事はないけれど、これといって嫌われる事もない。 いつも笑顔を浮かべていれば大抵はうまくいく。 笑顔でいればいいんだ、そう笑顔で...... 

 
 卒業式の後は、どこか嫌な気分だった。 僕はもやもやとした自分でもよくわからない感情を引きずったまま、自分の家にたどり着き、早々と部屋にこもった。 天井にはキラキラと輝くシャンデリア。 暖炉があったり、窓には大げさな長さのカーテンがあったりと、家具なども茶色や赤などの暖色系の色で配色されている。 おそらく高価な値段がついているのだろう、さりげなく存在感を放つ、絵画や骨董品なんかも昔からこの部屋に置かれているから、今さら変える気にもならない。 そんな点では自分は普通の高校二年生の家庭環境としては、色んな意味で違うんだろうなという意識は持っていた。
 
 僕は鞄をどさっとおろし、学ランを脱いで、部屋着に着替える。 普段なら違う自分を演じていた労力を唯一、休ませる事ができるこの空間も、今日は気が散って仕方がない。           
 窓から差し込む夕方の光を遮るため、僕はカーテンを手慣れた手つきで閉めながら、大きなベッドに飛び込んだ。

 ......何もする気が起きない。 はぁーっとため息をつきながら、大してそんなつもりもないのに、気がつくと答辞をしていた卒業生の事を考えていた。

 自分の卒業はまだ来年だってのに、何だかこっちまで変な気分になってくる。 ちくしょう、僕らしくもない。 あの卒業生のせいだ。 あいつのせいでどこか調子が狂う。 自分と極端に違う物は、なかなか受け入れにくいって言うけど、僕にとってはもはや理解の範疇を超えていた。 僕は無理矢理、どこの誰だかわからないそいつに、その責任を押し付けて考える事を一時遠ざけた。 
 しばらくするとコンコンと音が鳴り、部屋の扉が開く

 「坊ちゃん、お帰りなさい。 何か御用は?」
 
 といいながら、黒いタキシードに身を包み、蝶ネクタイをつけ、どこか上品な印象を受ける白髪の老人がやってくる。 そして僕も、それに対して決まり文句のように、
 
「ただいま雅じぃ。 夕飯だけお願いするよ」

 と答える。 これも僕にとってはいつもの事。 何ら変わりない。 僕が雅じぃと呼ぶこの老人はこの屋敷にずっと仕えてくれている執事だ。 僕が生まれてからも色々と面倒を見てくれてるから、祖父を早くに亡くした僕にとって、その代わりとも言えるべき存在だ。 

 僕の家は今時、珍しい大きな西洋の屋敷。 それもごく普通の住宅街の中に堂々と建っているから、さらに目立ってしまう。 屋敷の中にはいくつも部屋があって、小さい頃は自分の家が迷路みたいだなんて思いながら、いつも遊んでいた。 だからこれが普通で、これが僕の日常。 大してこの環境が嫌だなんて思いはしない。 けれど...... 

 「広すぎる............それにただ広いだけだ......」 

 僕はベッドに寝転びながら無意識にそんな事をつぶやいていた。 この屋敷に住んでいるのは僕と雅じぃの二人だけ。 ぽっかりと空いた大きな穴も塞げずに、行き場を失ってしまった感情のやり場も見つからずに、そんなものを二人で背負い込められるほどの広さは、見た目ほどこの屋敷にはなかった。 つまり何もかも空っぽだった。

 
 僕には母さんがいた、父さんがいた、姉ちゃんがいて、雅じぃがいて、いつの間にか家に住み着いていた黒猫なんかもいた。

 楽しかった、みんな仲良しで、大きなテーブルを囲んで夕飯を食べていた頃が、一番幸せだと思えた。 

 けれどそんな生活も長くは続かなかった。 元々体が弱かった母さんは持病が悪化して、遂には亡くなった。 その後、父さんは黙って僕たちの前から突然、姿を消した。 その頃、僕は小学二年生。 自分の周りで何が起きたのかなんて全くわからない。 整理しようともしなかった。 
 だから姉ちゃんと、雅じぃがきちんと僕と向き合って話をしてくれた。 なのに僕の中で何かが音を立てて、いとも簡単に崩れてしまった。 現実を受け入れる事なんて、その頃の僕にはできなかった。 だから目を塞いだ。 そして笑顔を失った。 感情という物が完全にわからなくなった......

 そういえば一つ疑問に思う事がある。 大人になるにつれて、今ではすっかり自分を演じてしまっているけど、感情がわからなくなったり、笑顔を失った訳じゃない。 そういえば、あの頃の僕はそんな絶望的な自分をどうやって乗り越えたんだのだろう? 僕の記憶は曖昧で、それがすごくもやもやとしていて、大切な何かを忘れているような気がしてならなかった。

 
 
 「ねぇ、雅じぃ。 僕って今、自然に笑えてると思う?」

 「..............さぁ、どうでしょうな坊ちゃん」