愛を抱いて 2
3.中野ファミリー
5月11日、ポートピアで落とした定期券と学生証が、郵送されて来た。
私は、生まれて初めて世の中の善意に触れ、感動を覚えた。
とても素敵な気分で部屋を出た。
その夜、香織に逢い、新宿で飲んだ後、飯野荘へ行った。
世樹子は、専門学校の友達の処へ泊まりに行って、居ないという事だった。
布団を敷いてもらって、私は横になった。
「ねえ、柳沢君にはまだ、私達の事云ってないんでしょ?」
「うん、云ってない。」
「ずっと云わない方がいいわよ。
あなた達、仲いいし…。」
「でも…、ずっと黙ってるわけには行かないさ。」
「そうかしら?
私は平気よ。
彼と一緒にいる時だけ、演技すればいいのよ。
あなたは隣に住んでるんだし、もし彼とあなたの関係が旨く行かなくなったら…、私のせいでそんな風になったら、私…。」
「結局、君がモテるからいけないんだよな。
いや、その前に、君と柳沢が俺より先に知り合った事がいけない。」
「…でも、私と柳沢君が知り合いじゃなかったら、あなたと私は巡り逢わなかったわよ。」
「それは云えるな。
ただ、一番大事なのは、俺と君が巡り逢った事さ。
だから君は何も心配しなくていい。」
「ありがとう…。
そうね…、あなたに逢えた事が一番大事なのよね…。」
「しかし、東京に来て群馬の女の子と付き合う事になるとは、予想もしなかったな。」
「あら、そう?
群馬は関東だから不思議じゃないわ。
広島の男と付き合う事の方が、ずっと予想できないわよ。
あ、そうか…、東京の上品で綺麗な女の子と付き合える事を、期待してたのね。」
「そうだったかも知れない…。」
「悪かったわね。
群馬で。」
「いや、群馬はいい処だよ。
行った事ないけど…。」
「きっと今から、東京の素敵な女性と沢山知り合いになれるわよ。」
「俺は高校までずっと広島だったから、こっちに来て、今までは遠く離れた場所で生活していた人間と話をするのが、何か不思議で、とっても愉しいんだ。」
「ふうん…、云われると解る様な…。
じゃあ、私と喋ってる時も不思議?」
「ドキドキしてて、よく解らない…。」
「嘘よ。
そんな風には見えないわ。
私って魅力的じゃないもの…。」
「充分、魅力的さ。」
「本当…?」
私は彼女の方を見た。
薄暗い中で、彼女もこちらを向いているのが判った。
彼女が云った。
「何が見える?」
「…愛が見える。」
「…眼が良いのね。
…でも、愛は見るものじゃなくて、触れるものよ…。」
私はゆっくり、彼女の布団へ身体を遷した。
「鉄兵、いい情報を持って来たぜ。」
部屋へ入って来るなり、柳沢が云った。
「何だよ?」
「このすぐ近くに、群馬出身の女の子が一人で住んでるんだってさ。」
「また群馬かよ。
お前の同県人だからって、すぐにどうなるものでもないだろう。」
「いや、その女の子は伊女の娘だそうだ。」
「ほお…。」
「更に、久保田の友達であるらしい。
…偶然とは恐ろしいだろう?」
「いや、偶然とは素敵だ。」
「そうだ。
俺達はこの偶然を、神に感謝しなければいけない。」
「どんな娘か聞いてるの?」
「今日大学で東高出身の奴に逢って、そいつに聞いたんだが…、『赤石房子』という名で、山野美容学校へ行ってるそうだ。」
「房子か…。
彼女はきっと、葡萄の房の様に淑やかで可愛い娘に違いない。」
「大丈夫。
俺達は神に祝福されている。」
「乳房の柔らかい娘でもあるに違いない…。」
その夜、私と柳沢は遅くまで作戦を練った。
5月14日の夜、3人の女が三栄荘へやって来た。
彼女達は私と柳沢の部屋を覗いて、色々と批評を云った。
「何か、何もない部屋ね。」
私の部屋を見て、香織が云った。
「そうね。
でも綺麗にしてるのね。」
世樹子が云った。
「どうして?
テレビもあるし、本棚もビニール・ロッカーもある。」
私は反論した。
「それだけしかないじゃない。」
香織が云った。
「それだけあれば充分さ。」
「あなた学生でしょ?
どうして机がないの?」
「大学生と机は関係ないさ。」
「生活してるって感じが、どこにもないのよね。
鍋やフライパンや食器とかが、ないからよ。」
世樹子が云った。
「だって台所がないんだぜ。」
三栄荘は、部屋の中まで水道とガスが来ておらず、1階に共同の炊事場があった。
「下にちゃんとあったじゃない。
もしかして鉄兵君、全然自炊しないの?
じゃあ全部外食?」
「俺、料理を作った事ないから、自炊できないんだよ。」
「俺は生活の匂いがしない部屋って、いいと思うな。」
柳沢が云った。
「カーテンもカーペットもあるし、押し入れの中には布団もあるんだぜ。
おまけに、もうすぐ冷蔵庫だって購入する予定なんだ。
何もない部屋だなんて、失礼だよな。」
私は云った。
「あなたは勉強も自炊もしないから、あなたの必要な物はこれで揃っているんだろうけど…、普通は、ただ生きているだけで…、もっと、ごちゃごちゃと色んな物があるのよ…。」
沼袋駅を降りて踏み切りを渡ると、すぐ右に「さだひろ」があり、そこから道を左に折れて三栄荘へ向かう途中に、「ジュリアンヌ」という欧州風パブがあった。
その店へ、私と柳沢は3人を連れて行った。
「赤石さんは美容師になるの?」
私は訊いた。
「ええ、まあね…。
自分で美容室を開きたいけど…、1年間で学校を卒業して、それから見習いでどこかの美容室で働かせてもらって…、ずいぶん先の事だから、どうなるか分からない。」
赤石房子は、パーマのかかった赤い髪をした化粧の濃い女だった。
「フー子の彼はねえ、群馬で板前の修行をしてるの。
それで将来、彼が1階でお店をやって、2階でフー子が美容室をするのが夢なのよね。」
香織が云った。
「ええ!
フー子ちゃん彼がいるの?」
私は云った。
「やはり、神に見捨てられ始めてるな…。」
柳沢が云った。
「でも、彼は今群馬にいるんでしょ?
じゃあ、淋しいね。」
「あなた、誘惑しようと考えてるのなら、無駄だと思うわよ。」
香織が云った。
「フー子ちゃん、彼に夢中なのよ。」
世樹子が云った。
「それは誤解だ。
俺はただ、好きな彼と離れて暮らしていて、まして都会の夜に1人でいる時などは、淋しいだろうからと…。」
「淋しいだろうから、どうするの?」
香織が云った。
「ぜひ、慰めてあげたい…。」
「だめよ、鉄兵君、逢ったばっかりじゃない。」
世樹子が云った。
「だから誤解だと云ってるだろう。
フー子ちゃんも俺達も東京に出て来たばかりで、きっと夜が切ないから、皆で慰め合おうって事さ。」
「偶然だけど、近くに住んでる同じ境遇の者同士が、折角こうして知り合ったんだからさ…。」
柳沢が云った。
「偶然ってさ、世の中で一番素敵な事だぜ。
だったら、いつまでも大事にしていたいじゃない…。」
「何が云いたいのよ。」
香織が云った。