アオサギ草
夜の血潮の蒼きこと、宵闇に透かす眠りとは、暗きしとねの静寂に、血潮を重ねる蒼きこと
「どうしたの、眠れないの?」
「いいや」
「ずっと考え事しているみたいね」
「いや 実は少しも」
「考えてない?」
「なんにも」
「ほんとに?」
「あぁ、なんにも」
「そう? 人は考えることしかできない生き物よ」
「うん。何も思い浮かばないから、考えようもない。それに面倒だよ」
「なぜ、面倒がるの?」
「そりゃあ、一つのことに留まらないからさ」
「一つのこと?」
「そうさ、色んなものが数珠つなぎに後から後から湧いてくるんだ」
「いいじゃない、いってしまってよ」
「それが駄目なんだ。湧いてくるっていっても、そりゃあもう、もわもわした曖昧なものなんだから」
「もわもわしたもの?」
寝間に寄り添う月光の、魔性の不思議は恍惚に、わずかに傾いだ月の花。二人ばかりに咲きこぼる、血潮に憂う蒼き花
「それは何か雲のようなものかしら」
「雲? そう…そう、かもしれない。気付いたら浮かんでいる雲みたいな」
「私たちは頭にいつも雲があるのね。そう、いつも雲を浮かべているのだわ」
月光憂いで雲のさび、手ずから寄っても分けても知れず、流れる雲の風まかせ。時折差し込む月影の、寄せては返す小夜の更く波。肌を洗うあわき夜陰に 、ゆくりなくもまたとない、過般の雨から一思い
「頭にか…。うむ、人は常に悩むべき生き物ではある。考えることもまたしかりか」
「あら、そんなことはないわよ」
「うん。考えることと悩むべきこととは同義じゃない。雲はなんだろうな」
「雲はね 感情を写しだす鏡なのよ」
「感情を?」
「えぇ、頭に浮かんだ雲を見るだけでその人の感情が判るの。気分のいい人の雲は初雪のような白に透き通っているの。ぷりぷり怒っている人の雲は黒く淀んで、闇から手が伸びるように稲妻さえ光っているわ。刹那の縄目が闇を雁字搦めにしているのね」
「闇にとっても光は一瞬か。闇から闇へと消えていたんじゃ、捕まえることも出来ないな」
「大丈夫よ。森を散歩しさえすれば、樹々たちが新鮮で真っ白な雲に換えてくれるから」
樹々の恵みはひとみごろ、雨声を蔀の傍らで、一夜一夜の皮衣。月夜の晩の詩に聴く、森に巣う外連味の、ありしなかりし様相は、雲を引き連れどこまでも
「いいね、段々と湧いてくるよ」
「えぇ、考えましょうよ。それとも面倒かしら」
「いや、もう頭に雲を乗せてしまっているからね」
「そうね。雲に乗ってどこまでも」
「乗っかっているのが雲なのさ」
「頭に乗ってふわふわ浮かんでいるのだわ」
「地に足が付いていない状態か。まるで人のほうが空に浮かぶ凧だな」
「凧? そうね凧よ。そう、人は風に揺らぐ凧のように地上で浮いているのだわ」
「雲の浮力に乗ってかい?」
「そうよ」
「それじゃ動けないよ。人は空を浮遊するようには出来ても、自力を頼りに自由自在というわけにはいかない」
「平気よ。人の移動は地上を這う陸亀につないでするの。凧糸でつないでね」
「陸亀? いくらなんでも不便じゃないか」
「それがそうでもないの。亀って案外歩くのよ。それにね、人の案内をする亀はまだ子供だから好奇心旺盛で、人の手繰る糸にも敏感なの」
「うむ、子亀ならちょっと糸を引けば瞬間にも持ち上げられるかもしれない。それで方向転換も可能だね」
「えぇ、それに子亀は持ち上げられることも好きなの。あのふわりとする感覚がね」
「なるほど。それで登場してくるのは子亀だけかい? 親亀はいったいどこにいるんだろうか」
「親亀は森にいるのよ。だから子亀たちは頻繁に森へ帰りたがるの。それを判らずに意のまま方向ばかり変えていると、寂しさのあまり自暴自棄となった子亀は、つないだ糸を噛み切って森へと逃げてしまうのよ」
「亀の甲羅は、切なさから身を守るためにまるく硬くなっているわけじゃないのにな。エゴは人の愚かしさ。それを思えば、凧糸でつながることの不安もなんだか象徴的だ」
幻想は純なるセルフイメージか、はたまたお為ごかしの二つ名か。見透かす心理の裏腹に、苔生す森の坊人は、糸を引きつつひかれつつ
「しかしそんなことをしたら、人は浮かんだまま戻ってこれないんじゃないか?」
「えぇ、だから空の上には亀の気持ちをなおざりにした人間がたくさん漂っているのよ。そして 地上に戻れない自分たちに気付いてほしいと、大きな人影を暗く落としているの」
「子供はそれを喜ぶが、大人はその理由を知ってるから沈黙に頼らざるを得ないのか。天に昇ることがこれほど悲痛だとは思わなかった」
「人がこの世に別れを告げるとき、肉体は土へと帰り、精神は天に昇るものよ。肉体ごと天に昇ったとしても、物理法則を逃れる自由は得られないわ」
「それにしても、子供の目に判らないとはよほど高く舞い上がったもんだな。不穏な気配で塗り込められた空。想像するだけでも見上げていられない」
切れて結んでまたきれて、糸に誓いし言の葉の、不安に踊る指のさき。ちぎれた糸のその意図は、甲羅の意思でちぎったものか、危うく口でとどめたものか
「噛み切られたのが殆どだとして、偶然に糸が切れた場合はどうなるんだい。不運の手先に千切られることもあるだろう」
「あるでしょうね。でも心配ないわ。そのときは決まってコウノトリが助けてくれるから」
「コウノトリ? それはなんでまた」
「あら、だってコウノトリは子宝を運ぶ鳥よ。人が初めて出逢う生き物よ。コウノトリには善良な人にせよ、邪な人にせよ、不幸に見舞われた人々を憐れむ気高さがあるの」
「浄らかな人にせよ、悪しき人にせよ、コウノトリたちは世の中の不幸をあわれむ、か。なるほどね。運ぶだけならペリカンという手もあるが。亀はどうなんだろう。人とそんなに深い縁があるとは思えないけど」
「亀はなんでもないのよ。森の住人で一番気が長そうだって理由からなの」
「それだけかい?」
「ほかにも細々あるにはあるわ。身体が地面に張り付いているとか、性質が物静かだとか、まるい甲羅がほかの住人と見分けやすいとか。でも、気長な処が一番の理由ね」
「うん。人間はなにかと気紛れで自分勝手だからなぁ」
「そうよ。だから、悪いことばかり考えている人は、たとえ不運なことで糸が切れても助けてもらえないの」
「仲良しのはずのコウノトリにもそっぽを向かれてしまうわけか」
「違うの。コウノトリはどんな人間でも一途に助けたいと願っているわ。でも 、人の頭の上の雲があまりに黒く深くその姿を覆い隠してしまうから、いくらコウノトリでも見付けだすことは不可能なのよ」
「浮かび上がる身体を黒い霞に隠した姿は、コウノトリの心眼に照らしても見えないのか。つくづく幸いならず、だな」
「コウノトリにはつらいことよ。とても悲しむのだもの。悲しんで悲しんで 飛ぶことも忘れてしまうくらい悲しむの」
「悲しみに耐え得るすべを知らないくらい、一途に願っていた」
「どうしたの、眠れないの?」
「いいや」
「ずっと考え事しているみたいね」
「いや 実は少しも」
「考えてない?」
「なんにも」
「ほんとに?」
「あぁ、なんにも」
「そう? 人は考えることしかできない生き物よ」
「うん。何も思い浮かばないから、考えようもない。それに面倒だよ」
「なぜ、面倒がるの?」
「そりゃあ、一つのことに留まらないからさ」
「一つのこと?」
「そうさ、色んなものが数珠つなぎに後から後から湧いてくるんだ」
「いいじゃない、いってしまってよ」
「それが駄目なんだ。湧いてくるっていっても、そりゃあもう、もわもわした曖昧なものなんだから」
「もわもわしたもの?」
寝間に寄り添う月光の、魔性の不思議は恍惚に、わずかに傾いだ月の花。二人ばかりに咲きこぼる、血潮に憂う蒼き花
「それは何か雲のようなものかしら」
「雲? そう…そう、かもしれない。気付いたら浮かんでいる雲みたいな」
「私たちは頭にいつも雲があるのね。そう、いつも雲を浮かべているのだわ」
月光憂いで雲のさび、手ずから寄っても分けても知れず、流れる雲の風まかせ。時折差し込む月影の、寄せては返す小夜の更く波。肌を洗うあわき夜陰に 、ゆくりなくもまたとない、過般の雨から一思い
「頭にか…。うむ、人は常に悩むべき生き物ではある。考えることもまたしかりか」
「あら、そんなことはないわよ」
「うん。考えることと悩むべきこととは同義じゃない。雲はなんだろうな」
「雲はね 感情を写しだす鏡なのよ」
「感情を?」
「えぇ、頭に浮かんだ雲を見るだけでその人の感情が判るの。気分のいい人の雲は初雪のような白に透き通っているの。ぷりぷり怒っている人の雲は黒く淀んで、闇から手が伸びるように稲妻さえ光っているわ。刹那の縄目が闇を雁字搦めにしているのね」
「闇にとっても光は一瞬か。闇から闇へと消えていたんじゃ、捕まえることも出来ないな」
「大丈夫よ。森を散歩しさえすれば、樹々たちが新鮮で真っ白な雲に換えてくれるから」
樹々の恵みはひとみごろ、雨声を蔀の傍らで、一夜一夜の皮衣。月夜の晩の詩に聴く、森に巣う外連味の、ありしなかりし様相は、雲を引き連れどこまでも
「いいね、段々と湧いてくるよ」
「えぇ、考えましょうよ。それとも面倒かしら」
「いや、もう頭に雲を乗せてしまっているからね」
「そうね。雲に乗ってどこまでも」
「乗っかっているのが雲なのさ」
「頭に乗ってふわふわ浮かんでいるのだわ」
「地に足が付いていない状態か。まるで人のほうが空に浮かぶ凧だな」
「凧? そうね凧よ。そう、人は風に揺らぐ凧のように地上で浮いているのだわ」
「雲の浮力に乗ってかい?」
「そうよ」
「それじゃ動けないよ。人は空を浮遊するようには出来ても、自力を頼りに自由自在というわけにはいかない」
「平気よ。人の移動は地上を這う陸亀につないでするの。凧糸でつないでね」
「陸亀? いくらなんでも不便じゃないか」
「それがそうでもないの。亀って案外歩くのよ。それにね、人の案内をする亀はまだ子供だから好奇心旺盛で、人の手繰る糸にも敏感なの」
「うむ、子亀ならちょっと糸を引けば瞬間にも持ち上げられるかもしれない。それで方向転換も可能だね」
「えぇ、それに子亀は持ち上げられることも好きなの。あのふわりとする感覚がね」
「なるほど。それで登場してくるのは子亀だけかい? 親亀はいったいどこにいるんだろうか」
「親亀は森にいるのよ。だから子亀たちは頻繁に森へ帰りたがるの。それを判らずに意のまま方向ばかり変えていると、寂しさのあまり自暴自棄となった子亀は、つないだ糸を噛み切って森へと逃げてしまうのよ」
「亀の甲羅は、切なさから身を守るためにまるく硬くなっているわけじゃないのにな。エゴは人の愚かしさ。それを思えば、凧糸でつながることの不安もなんだか象徴的だ」
幻想は純なるセルフイメージか、はたまたお為ごかしの二つ名か。見透かす心理の裏腹に、苔生す森の坊人は、糸を引きつつひかれつつ
「しかしそんなことをしたら、人は浮かんだまま戻ってこれないんじゃないか?」
「えぇ、だから空の上には亀の気持ちをなおざりにした人間がたくさん漂っているのよ。そして 地上に戻れない自分たちに気付いてほしいと、大きな人影を暗く落としているの」
「子供はそれを喜ぶが、大人はその理由を知ってるから沈黙に頼らざるを得ないのか。天に昇ることがこれほど悲痛だとは思わなかった」
「人がこの世に別れを告げるとき、肉体は土へと帰り、精神は天に昇るものよ。肉体ごと天に昇ったとしても、物理法則を逃れる自由は得られないわ」
「それにしても、子供の目に判らないとはよほど高く舞い上がったもんだな。不穏な気配で塗り込められた空。想像するだけでも見上げていられない」
切れて結んでまたきれて、糸に誓いし言の葉の、不安に踊る指のさき。ちぎれた糸のその意図は、甲羅の意思でちぎったものか、危うく口でとどめたものか
「噛み切られたのが殆どだとして、偶然に糸が切れた場合はどうなるんだい。不運の手先に千切られることもあるだろう」
「あるでしょうね。でも心配ないわ。そのときは決まってコウノトリが助けてくれるから」
「コウノトリ? それはなんでまた」
「あら、だってコウノトリは子宝を運ぶ鳥よ。人が初めて出逢う生き物よ。コウノトリには善良な人にせよ、邪な人にせよ、不幸に見舞われた人々を憐れむ気高さがあるの」
「浄らかな人にせよ、悪しき人にせよ、コウノトリたちは世の中の不幸をあわれむ、か。なるほどね。運ぶだけならペリカンという手もあるが。亀はどうなんだろう。人とそんなに深い縁があるとは思えないけど」
「亀はなんでもないのよ。森の住人で一番気が長そうだって理由からなの」
「それだけかい?」
「ほかにも細々あるにはあるわ。身体が地面に張り付いているとか、性質が物静かだとか、まるい甲羅がほかの住人と見分けやすいとか。でも、気長な処が一番の理由ね」
「うん。人間はなにかと気紛れで自分勝手だからなぁ」
「そうよ。だから、悪いことばかり考えている人は、たとえ不運なことで糸が切れても助けてもらえないの」
「仲良しのはずのコウノトリにもそっぽを向かれてしまうわけか」
「違うの。コウノトリはどんな人間でも一途に助けたいと願っているわ。でも 、人の頭の上の雲があまりに黒く深くその姿を覆い隠してしまうから、いくらコウノトリでも見付けだすことは不可能なのよ」
「浮かび上がる身体を黒い霞に隠した姿は、コウノトリの心眼に照らしても見えないのか。つくづく幸いならず、だな」
「コウノトリにはつらいことよ。とても悲しむのだもの。悲しんで悲しんで 飛ぶことも忘れてしまうくらい悲しむの」
「悲しみに耐え得るすべを知らないくらい、一途に願っていた」