殺し屋少年の弔い
山田
第一部
ある冬の日の授業中。俺は窓際後ろから二番目なんて特等席で昼前特有のちょうど良い日光を体半分に浴びながら、グラウンドを眺めているだけで残り十分となった四時間目の授業を和やかに消化していた。
冬服の黒いブレザーが効率よく日光を吸収し、暖房設備の無いこの教室でも指を悴ませることもなく、しかし、その万全の状態の指にノートをとらせる事も無かった。
「こんなひとときが俺には一番幸福に感じるんだ。」
いそいそと古典の現代訳をノートに取っている前の席の奴だけに聞こえるように、ぼそりと言う。聞こえなかったのか無視したのか、俺の前に座るセミロングは、無反応で変わらずノートにシャープペンシルを走らせていていた。この、俺からするとかなり危険な女子高生は、こちらをふり向いて鉄拳を振りかざす事こそ無かったが、先程まで優等生らしくさらさらと物静かに書いていた現代語訳は、いつのまにか殴り書きになっていた。
命の恩人で一応上司にあたる立場の、彼女を挑発すれば怒りを買うのも当然なんだが、仕事でストレスの溜まっていた俺にはそんなことは関係ない。とにかく新しい仕事をつぎつぎと持ってくる彼女に嫌味をぶつけてみたかっただけなのだ。
随分と体感時間が長かった幸福な授業が終わり、まじめそうな学級委員の号令で生徒は揃えて起立し、礼をした。授業に参加していたとは言えない俺も一緒に礼をし、ゆるりと頭を上げようとした。
ぐしゃっ。
頭上で紙を思い切り握りつぶしたような音がすると共に、頭皮に激痛が走った。その瞬間に、髪を掴まれたと察する。髪を掴むのは大抵の格闘技で禁じ手だぞ!と心の悲鳴を上げながら、大人しく両手を挙げる。暴れたって自分が痛いだけだからな。
「あー、痛いです。痛いのです。」
訳も分からず必死で声を絞り出して、俺に現在進行形でいわれの無い暴力を振るう正体不明のそいつに言った。いや、正体はもう分かってるがな。もちろん、先程まで俺の席の前に座っていたあいつだ、小宮。。
「あなたねぇ……。」
そう呟くと、小宮は髪を再び思い切り掴んだ。
「だれのおかげで今ココでぬくぬくと授業を受けられていると思ってるのよ、」
単語一つで拍を取るように、白旗よろしく俺の頭をさらに強く振り回す。もっとも、白旗をすぐにでも揚げたいのは俺なんだが、都合よく掲揚できる携帯型白旗、なんてものが手元にあるはずもなく、なにやらぶつぶつと嫌味を言われ続けながら十秒くらい激痛に耐えながら為されるがままに脳みそをシェイクされていると、机三つ分くらい離れたところからこちらに向かって声がした。
「相変わらず君達は仲が良いねぇ……。」
その落ち着いた声が聞こえたと同時に、小宮はさっきまで俺の頭髪を全力で掴んでいた手をパッと離した。俺は一度床に崩れ、さんざんかき混ぜられグラグラとゆれる思考と視界を、やっとこさその声の主へと向けた。
「早川、助かった。」
「ん?どうかしたの?」
予想通りに机三つ分の距離から、早川、は不思議そうに首をかしげ、俺を見下ろしながら言った。こいつの柔らかな表情が妙にその動作とマッチしていて、俺の頭皮の傷を深くする。
「今のどこが仲良く見えるんだ?ただの暴行だぞ?」なんて嫌味の一つを言ってやろうと勇ましくも立ちあがろうとした。しかし無慈悲にも、小宮の手、第二関節が俺のつむじに力を込めてぐりぐりと押し付けられて阻止された。
またもや激痛に言葉を発することも出来なくなった俺を気遣うことも無く、小宮が代わりに口を開いた。
「な、なんでもないわよ。あと仲良くないからね。」
ぶっきらぼうに弁明する小宮に続き、つむじを刺激する小宮の手を払って、
「そうだ、仲が良いわけが無い……よっと。」
と、小宮のシャツの端を掴んで起き上がり、机に腰掛けながら言った。早川は少しニコりとした後、
「それ、随分大きな本だね。」
そんな俺たちの言葉を完全に流して、俺のスクールバッグからはみ出たハードカバーを指差した。多分それを指摘された瞬間俺は、「しまった」を完全に顔で表現したような引きつり具合だったと思う。同じくその言葉に動揺してしまっている小宮の変わりに
「そりゃあただの本だ。この前こいつの家に行った時に俺もお前と同じように気になってな、貸してくれって頼んでたんだ。」
と、少々まくし立てるように言った。すると早川は更にニコニコとして、その様子にクエスチョンマークを浮かべる俺を見、小宮はそこにエクスクラメーションマークを加えたような表情を浮かべた。
早川は俺と小宮を交互に見て、またもやニヤリと笑う。
「どうしたんだ?」
「くくっ。」
早川が重ねてのどを鳴らして笑うと同時に、ついに小宮は少し顔を赤らめてしまった。
「どうしたって、あなた今誤解を生むような事……。」
小宮は呟くように言い、ぽふっと椅子に座って、そっぽを向いてしまった。意図不明なその行動にたじろいでいると、早川がふふんと得意げに鼻をならして、頼んでもいないのに口を開いた。
「仲は悪いけど互いの家には寄ったりするんだね、君達は……くくっ。」
あっ、と声が出た。結構噂に成りやすそうなことを思い切り口走ってしまってたわけだ。しかしこの返答を聞いて、少し安堵した自分もいた。なぜなら、こんなくだらない学生同士の色恋なんて、足元に及ぶことすら出来ないような機密を隠していたからだ。
「まぁ、お邪魔だろうから自分の席に戻るとするよ。」
早川は「どうぞごゆっくり」とでも伝えたいのか、顔の前でひらりと手を返してニヤつき、もう一度わざとらしく笑いながら去っていった。
「ふぅ……。」
そいつが離れていくのを眺めながら、崩れるように自分の椅子へと座った。無駄に異常蓄積した疲労と共に窓枠へともたれ掛かり、それとなく小宮の方を見る。すると小宮はさっきの照れ顔とは一変したまじめな顔、それこそ俺を軽く恐怖で打ち震えさせそうな目つきで、更にその目とは相反した艶かしい唇を俺の耳へと近づけて、言った。
「貴方、分かってるんでしょうね?その本のことがばれたら私達がどうしなきゃいけないか。」
恐怖と官能は、脳にほぼ同じ刺激を与えるらしい。だからちょっとばかりこの状況に興奮した俺がおかしいわけではないだろう?そういうわけで小宮の近い息遣いに、俺まで少し息遣いを大きくさせながら、惚けて言った。
「マズいって、おうちでーとの事か?」
ビンタされた。
「分かってるさ。ちゃんと収めとく。」
ここはおとなしく本を片付けておこう。振りぬいたビンタの手の甲がこちらに向けられていたからな。