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ニアと魔法のダンボール

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 ある日、私はいつものように散歩に出掛けようとしていた。今日は天気もよく暖かい。何をして遊ぼうか――私はいそいそと庭の倉庫に片付けてあったダンボールを取り出した。
 思えばこの日、私はニアを見ていなかった。
 普段通りにダンボールに乗っても、それは淡い光を放たなければふわりと浮かぶこともしない。庭先で首を傾げていれば、買い物に出掛ける途中だったらしい母が見えないはずの私に「いい年して何やってるの」と笑って声を掛けた。魔法の袋はどうなっているんだろう。私はすぐ服のポケットから小さな巾着袋を取り出して目を疑った。
 あの日彼がくれたその袋は今にもはちきれんばかりに膨らんでいたというのに、今ではその面影もない。厚さなんて感じられないほど、それはぺしゃりと潰れてしまっていた。そんな、どうしていつの間に――私はニアに話を聞くべく、今日初めてリビングへと足を踏み入れた。しかしそこには妹だけで、彼女は布団を片付けたこたつに肘を突きながらテレビを見ていたのだ。ニアの定位置で。
「ねぇ、ニアは?! ニアを見なかった?!」
「ニア?」
 妹は怪訝そうな顔で、言った。
「ニアって誰?」
 何を言っているのかわからないとばかりに肩を竦める妹は、そういえば私とは違う名で彼を呼んでいたのだったか。融通の利かないものだと地団太を踏んだ。
「そんなこと言ってないで、教えてよ! いつもそこにいたじゃない!」
「お姉ちゃんこそ何言ってるの、止めてよ! 家族以外に誰がいたって言うの」
 家族以外に、誰が――そうだ、彼は家族じゃない。それどころか、どこの誰なのかも私は知らないのだ。知っているつもりだっただけなのだ。
 リビングを見渡しても確かにいない。最近私が構わなくなったから皆でからかっているのだろうと本気で思ったけれど、カゴの中のハムスターは大人しく餌を食べている。彼がよくこたつの上で遊ばせてくれていたのも忘れて、カゴの中の生活を以前のように受け入れていた。
 大人の男が隠れられそうな場所は全部探した。クローゼットも、洗面所も、トイレだってそうだし、ベッドの中も全部全部。けれどニアはとうとう見つからなかった。
「……ニア」
 庭先に放り出されたままのダンボールの元へ戻り、その上へへたり込む。そこは熱を失いひんやりとしていて、今更彼の掌を思い出した。どうして、どうしていなくなってしまったの。これではもう空を飛び回ることは叶わないじゃないか。叶わないじゃないか。
 そうして私は手の中に納まっていた、小さな袋を今一度見やる。そういえばこれをくれたあの後、ニアは「まだ開けてはいけない」と言っていたのを思い出した。何故かと問うと彼はそっと笑って――「信頼」が詰まっているといったそこは見る影もなく、自分のしてしまったことの大きさがわからないまま固く結ばれていた紐を初めて解いた。
 それはニアが残した、最後の魔法だった。
 開いた巾着の口から、勢いよく色とりどりで大小様々の星屑が飛び出す。どん、と大きな音がしたようにも感じたが、辺りの静けさは変わらない。それでも私だけははっきりと感じることが出来る。さらさらと頭上に降り注ぐ星屑の欠片の中に、私はニアを見た。

『――今日はあったかいのに、こたつに入って暑くないの?』
 頷く彼。これは一番最初に話したときの記憶。
『お母さん、みかん取って!』
『寒いからって、自分で取りなさい!』
 すると隣から転がってきたみかん。その先には、ニア。そうだ、彼は自分のみかんを分けてくれたんだ。
『……ありがとう』
 そう言うとやっぱりニアは頷いたんだっけ。
 そして、他にも。
『一緒に、散歩』
『すごい、凄いねニア! こんなことが出来るなんて!』
 これはあのときの、散歩の記憶だ。このとき初めてニアと喋ったんだ。私はもの凄くドキドキしていたんだよ。
『僕と一緒は、楽しい?』
『勿論だよ、ニア!』
 そうだ、いっぱい楽しかった。車の間をすり抜けて走ったこと、山の天辺に上って街の明かりを見下ろしたこと、雲の上に初めて行ったのも本当は二人でだった。眩しい太陽は僕に似合わないから夜が好きだ、と話してくれたことも覚えている。それでもニアは言ってくれたんだ。
『本当は、朝日も見せてあげたかったんだけど――』
 いつでも見られると本気で思っていた。私はこれからもニアと一緒に遊ぶんだと、信じて疑わなかったから。ニアも信じてくれていた、だからこそ魔法の袋をくれたのだろう。

『君は僕の初めての友達』
 なのに私はそう言ってくれたニアを裏切ってしまった。

「ニア……ごめん、ごめんなさい!」
 星屑は優しい音を立て、ひとつひとつ消えていく。そこに映し出されたニアの猫背も、眠そうな瞳も、私だけが知っていた笑顔も、全てが宙に掻き消えた。掴もうと手を伸ばしても、指先が触れた瞬間にそれは儚く砕け散る。私はまた、自分でニアの笑顔を消してしまった。置き去りにされた今ならよくわかる。彼は恐らく、泣いていたのだ。
 私もまたダンボールに突っ伏して泣き崩れた。白いダンボールに涙が跳ね、ねずみ色の染みを作る。いつしかそれが水溜りを作ってもその雨が降り止む事はなかった。買い物から帰ってきた母に止められるまで、止められても。忘れていたニアへの気持ちが、皮肉にも今になって戻ってきたのを実感したのだ。そしてそれは届きもしない泣き声となり、一日中響き続けた。

 あの星屑は真昼にも綺麗に輝いていた。この世界のどこにも存在しないような光を柔らかく放ち、そして揺れる草の葉に似た音を立てて散っていった。彼はきっと記憶を乗せたこれを、私と一緒に見るつもりだったに違いない。いつかいつかと、お互いを「信頼」するこころが弾けて溢れ出て来るその日を夢見て。
 だからもしあなたの家に、こたつを占領してみかんを食べている銀髪の青年が現れたなら、そのときはどうか彼をよろしく――彼は無愛想に見えるけれど本当はとても優しくて、寂しがり屋なのです。
 最後に残ったのは、私だけが覚えている彼の記憶。それは我が家のこたつを占領していた猫背で無口な魔法使いと、そのダンボールの記憶だった。