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ニアと魔法のダンボール

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いつからだろう、この家には銀髪で背の高い男が住み着くようになっていた。  
 彼はねずみ色のパーカーにジーンズというラフな出で立ちで家のリビングにあるこたつを占領している。何故か親や妹もこの見知らぬ男が居座っている事実を気にも留めてはいない。それどころかまるで家族のように接する様は不思議としか言いようがなかった。
 少し猫背気味な彼は消極的なのか面倒臭がりなのか、自分からは話さない。私の妹が隣でマシンガンのように喋り続けても、彼は声もなく頷くだけだった。一応聞いてはいるらしい。勿論それが「会話」であるとは到底思えなかったけれど。
 あるとき私も意を決して彼の横に座り、恐る恐る声を掛けてみた。とは言え友人に話し掛けるように気軽なものではなく、冬にしては暖かい日が続く中、いつものようにこたつに座っていて暑くはないのか、というようなご機嫌伺いだ。会話にならないことは妹の例を見てもわかっている。本当に休日の好奇心と暇つぶしでしかなかったのだ、最初は。
 けれどそのとき初めて向けられた、彼の深い海の底のような瞳が私のこころを捉えるのに時間は掛からなかった。
『なんて不思議な男の人なんだろう』
 私は彼を“ニア”と呼んだ。近くにいるのに遠く離れているような心地がたまらなく寂しかったからだ。妹はまた違う名で彼を呼んでいたけれど、どうにも思い出せない。思い出すと喧嘩になってしまうだろうし、それはそれでいいのかも知れない。
 勝手にではあるがその名前を決めて、私はニアの傍にいることが多くなった。彼は何も言わなかったけれど、それは私の勝手を許してくれたということなのだろうか。そして私は次にニアの沈黙の心地よさを知る。
 その中で色々とわかってきたこともあった。彼は話さないからといって特に私達家族を避けているわけではなかった。それは今、彼が取ってくれたみかんが私の手の中で証明している。ありがとう、と小さく言うと、彼はまた頷いた。ニアは私を知っているのだ!
 それだけでなく、ニアは意外と動物には興味があるらしい。うちにはハムスターが一匹いるのだが、彼はよくそのハムスターをカゴから出してはこたつの上で遊ばせている。表情が少し綻んだのを見たのはこのときのことだった。
 そして彼はこたつから動かない。母がすぐ側で掃除機を掛けていようとも彼は微動だにしなかった。妹や私は耳を塞いですぐ退散するというのに、人一倍忍耐強いのか、それとも本当に面倒臭がりなだけなのか。時折母が掃除機をぶつけて謝れば、彼はやはりいつものように頷くだけだった。
 でも彼の存在を感じれば感じるほど、彼はどこの誰で何をしていたのか、またすぐいなくなってしまうのか――そんなことが気になった。その考えは少しニアと近付けた気になっていた私の胸をすっと冷やす。傍にいたい、そう思った。    
 ある夜、そっと玄関の扉が開くのを、夢現に揺らいでいたこの耳が捉えた。ここが夜中明かりの絶えない都会ならまだしも、星の瞬きが人口の光に邪魔されない程度には田舎なのだ、無論コンビニや二十四時間スーパーなどもない。私はその音を追いかけてベッドから降りた。
 そういえば、家族は皆二階で寝ているというのに、階段を下りた音はしなかった。誰かがまだ階下で起きていたのか?しかしリビングにそんな形跡はない。だとしたら、まさか!
 そして玄関を開けた先の道路に、やはりニアは立っていた。
「……ニア?」
 彼はその手に畳んだ白いダンボールを持っている。それは少し大きめの、大の大人でも余裕でダンボールすべりが出来るほどのものだ。私が更にどうしたの、と問うとニアはそのダンボールを目の前へと掲げた。
 ニアはいつもと変わらぬ出で立ちで、全く予想も付かない事をする。
 ニアがそのダンボールに左手をかざした瞬間、それは星屑のような細かな光を辺りへと撒き散らしながら浮かんだのだ。しかもニアがある方向へ指差すと、ダンボールはそちらへと柔らかく飛び回る。付き纏う蛍火の様な優しい明かりが一層非現実さを物語った。
「ニア、それ……」
「行く?」
「え?」
 初めて聞いたニアの声は想像通り少し低かった。でものんびりとした彼にはぴったりの、例えるなら彼が身に纏うねずみ色のような声だった。
 ニアはふたしかだ。いつでも、まるでゆめのように。
「一緒に、散歩」
 彼がこちらへ差し出した手を、私は何も考えずに掴んだ。冷たい、そんな間隔も覚えるだけ無駄だ。だってきっとこの人の手は、私の好奇に震えるねつですぐいっぱいになってしまうだろうから。
 ニアはダンボールにまたがると、その後ろに私を案内した。そこは幼い頃と変わらないすわり心地だったけれど、ひとつ違うことがある。前の背中のぬくもりだ。私が彼の腰に腕を回した瞬間、それは動き出した。魔法の絨毯さながら、夜空へと走り出したのだ。
「飛んでる! 私達、飛んでるの?!」
「そうだよ――こんなことだって、出来る」
 彼は、またぽつりと言葉を返す。何、とこちらが聞き返す前にダンボールはぐっと高度を上げた。
「うわぁっ!」
 疎らな街の明かりが更に小さくなっていく。かわりに頭上に輝く星が少し近くなった。それなのに下を見てはぞっとしてしまう。落ちれば勿論死んでしまうだろう。そんな考えを見透かしたように、ニアは私の手を掴んだ。握り締めていた彼の服から震えが伝わったのか、彼はそっと肩越しにこちらを振り返った。
「大丈夫、僕がいるんだ」
 その言葉は当てにならないはずなのに、どうしてだろう、母や父に匹敵するほどの安心を覚えた。ニアがいれば大丈夫、私は小さく彼のように頷いて、その背に勢いよく頬を預けた。
 それを合図としたのか、ニアは行くよ、と呟いた後、まるで空を滑るようにして駆け下りる。髪をさらう風はきっとこの速度だと強くて息も出来ないほどだろうに、何故だか酸素の海に浸かっているように心地よい。こんな風にダンボールで宙を舞う彼だ、周りに空気の泡を作っていてもおかしくはない。そう思うと景色は途端にゆっくりと動いた。楽しい、綺麗だと感じたこころがそうさせたのだと思った。
 「すごい、凄いねニア! こんなことが出来るなんて!」
「よし、じゃあ今度は車と競争しよう」
「でも、運転手が私達見たら事故するかも」
「それも大丈夫、彼らには見えない。だって大人は皆ダンボールで遊ばないからね」
 だから行こう。ニアがそう言うとダンボールから放たれる淡い光が尾を引き、どんどん高度は下がっていく。たちまちジェットコースターのような爽快感とトランポリンのような浮遊感が体中を支配した。小さい頃に野を滑ったダンボールが、今夜空を走りぬける。
 ニアはどこの誰かなんてどうでもいい。彼は魔法使いだ。そしてそれは私達の秘密――足元に高速道路の眠らない明かりが見え始めた。
 その夢のような時間の後、日が昇る前に私達は家路に着いた。本当は朝日も見せたかったけれど、とニアがいつになく残念そうに告げる。そして彼は地に降り立ってすぐ、私の手を突然取ったかと思うと、この掌に小さな巾着袋を乗せたのだ。
「これ、何?」
「これは魔法の袋――これがあれば、いつでも空を飛べるんだ」