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人は書き続ける限り、誰でも作家である。~一歩踏み出す勇気

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こんにちは。

 今日は午前中、かかりつけ医に薬を貰いにいっていました。

 その前に、母とこんな話をしました。

 母があなたもそろそろ夢だ夢だと言ってるけど、良い加減に諦めたら?

 私が尊敬する母ですが、正直、こういうところだけは理解できません。

 私はいつも子どもたちに向かって、まったく逆のことを言います。

 現実は甘くないけど、夢を諦めちゃダメよ。

 私はこう考えます。

 夢はずっと見続けるものだと。

 もちろん、それが一生かかって叶わない場合も多いと思う。そういう場合の方が

 たぶん、多いんじゃないかな。

 でも、諦めたら、そこで終わりですよね。

 母をできるだけ怒らせないように私は考えて言いました。

 お母さん、どんなに遠い場所にある夢だって、今、自分が立っている

 場所から一歩踏み出さない限りは、その果てしない夢に近付くことはできないよ。

 仮に、どんなにその夢が遠くても、一歩踏み出せば、確実に夢に近付いたことに

 はなるでしょ。

 やる前から、何でも無駄だ、ダメだなんて言って努力も挑戦もしなければ、

 夢を実現させる可能性もゼロだよ。

 私は心底から、そう思います。

 一歩多踏み出すことと、一歩も踏み出さない。

 その違いは大きい。

 夢を諦めてしまえば、可能性は永遠にゼロ。

 でも、諦めずに歩き続ければ、可能性は1%から2%になることだってある。

 それが私の信条です。

 まさに、継続は力なり。

 そんなことを真顔で言うと、今時、何を言ってるんだ、この人という眼で

 見られるかもしれません。

 しかし、私は、日々のコツコツとした積み重ねや努力、たゆみなき挑戦に

 勝るものはないと思います。

 頂点を極められるかどうかは、確かに持って生まれた才能に頼らざるを得ませんが、

 その近くまで上り付けるかどうかは、皆、同じ、

 努力ではないかと思います。

 その点で、母と私は意見が違うのです。

 人間、棺桶の蓋が閉まるまでは、誰にでもチャンスと可能性はある。

 極論かもしれないけど、そう思っています。

 また、そういう根強い思いと書くことがとにかく好きという気持ちが

 根底にあったからこそ、

 今まで性懲りもなく、文芸という険しく果てしない、先の見えない道を

 歩いてこられたのだとも思います。

 私が師匠の仰ぐ恩師はこう言われます。

 プロ・アマはさほど関係はない。

 人間は一生、書き続ける限り、作家である。

 いつだったか、小説サイトで知り合った書き手の友達が

 悩んでいた時、私はこの言葉を彼女に伝えました。

 人は誰でも一生、書き続ける限り、作家である-。

 何か迷いが吹っ切れたようだと、彼女はそう言っていました。

 夢は見続ける限り、実現する可能性を秘めている。

 それを心に刻みつけおくことは、とても大切なことではないかと思います。
   
 もちろん、考え方は人それぞれです。

 これはあくまでも、私の生き方です。

 また、作家なんて言葉はそんなに軽々しく使うものじゃないと思われる方も

 いらっしゃると思います。

 でも、何か心に希望を抱いて生きていた方が、私は毎日にハリが出るように思うし、

 書くことという天職ともいえない趣味に巡り会えて本当に良かったです。


☆ 良いときもあれば、悪いときもある ☆

 人間の人生って、本当に色々あります。

 こんな私の平凡でささやかな人生でも、本当にめまぐるしく日々が過ぎ、

 色々なことが起きます。

 他人には、たいしたことないと思えるようなことでも、

 私本人には結構重大な悩みだったりする。

 禍福はあざなえる縄のごとし。

 人生には良いことも悪いこともあるけれど、結局はそのつりあいが取れるように

 うまくできている-、

 つまり、幸福と不幸は隣り合わせということですね。

 良いことが続いた後には、また哀しいことがあるかもしれない。
 
 それで誰の人生も公平になるように神さまが作っているのかもしれません。

 私という人間の人生は仕事を持つ人間、更に妻、母、娘としての顔、

 アマチュア作家という顔、大きく分けて三つの顔を持っています。

 そのどれもが欠けたとしても、私は私じゃなくるでしょう。

 そして、それぞれの面で良いこと、哀しいことがあります。

 ネット小説の世界に来てからは、嬉しいことが増えたけど、

 哀しいこともその倍くらい増えました。

 それでも、細々とでも情報発信していけば、いつかどこかで誰かが見てくれる。

 更に、私はどんなにあがいても、私以上にも以下にもなれません。

 だから、私は私らしく生きるしかないし、書き続けるしかない。

 いつか受講したシナリオ教室の先生が最後の課題に書いてくださったひとことが

 今も忘れられません。

 〝作家は書くのを止めたときから、作家ではなくります。〟


☆ 感性を大切に 2014/03/26 ☆

 それから、一つ気づいたことがあります。

 これは読者の受け狙いの小説を書くよりは、自分の書きたい作品を書いた方が

 良いという私の考え方と繋がるものでもあります。

 最近、書き上げた現代小説がケータイ小説サイトで予想外に受けた時、

 私はもの凄いショックでした。

 最高に嬉しくてありがたいのに、心のどこかで矛盾を感じていたのです。

 それは何故か?

 受けた作品が私の目指す方向性とは違っていたから。

 どこがどう違うのかというと、私は他のエッセイでもお話ししたように、

 しっとりとした品の良い時代小説を書きたい。

 その作品はたまたま時代物を書き継いでいる間の息抜きに少し変わったものが

 書きたくて書いた現代物でした。

 なので、いつもの自分よりはかなり違ったテイストにしたんです。

 もちろん、そのときはそういう作品が書きたくて書いたのに違いはないけれど、

 東めぐみが究極に目指す理想とは正反対のものでした。

 いつも自分が書いていて、そういうものがやりたいという路線とは一八〇度

 違う刺激的な作品が受けたって、これって、何を意味するんだろう。

 正直、その先は考えたくありませんでした。

 ですが、どれだけ考えてみても、私は受け狙いだけで作品を書き続けるのは

 難しいし、そういうことはやりたくないというのがホンネでした。

 たとえ少数でも私の書きたい路線の作品を好きだと読んで下さる方もいるのだし、

 何より、物書きが自分の信念を曲げて書きたいものをねじ曲げて書いたとしても、

 それは駄作にしかならないだろうと思います。

 そういう意味では、自分の書きたい作品がすなわち受ける方向性のものだという

 書き手は、やはりそれが天与の才能であり、天才なのだろうと思います。

 私はこういうのを書けば受けるだろうという作品の予測はできるかもしれないが、

 それを書くということはできないし、したくない。