らふまにのふ
“みるく”が「ここだよ」という家を見て驚いた。門を入って目にする白い壁を囲むようにバラの花が咲いていた。白い背景の低い所に緑、上方に緑と赤、ピンク色。さらに上方に茶色の屋根。絵になる風景である。
「お~~!」
私はただそれだけしか言えなくてしばらく立ち止まってその風景を見ていた。建物も建て売り住宅とは違って洋風で重厚感がある。私の想像は小さな庭に数株のバラの花、という貧弱なものだった。
「満足いただけたかしら」
“みるく”が笑みを浮かべながら言う言葉にもただ頷いていた。
「ま、とにかくお茶にでもしましょうか。あ、ケーキ食べよう」
“みるく”が玄関の鍵を開ける手つきさえも優雅に見えているのはバラの花のせいだろうか。
「さあ、どこにしようかな。キッチンというのも味気ない。リビングにしよう」
“みるく”の案内で通されたリビングも私には想像外だった。洋間を畳数でいうのも変だが十畳は軽く超えていて、もしかしたらその倍? 隅にピアノがあった。おそらく防音のカーテン、オーディオセットが目についた。
コーヒーを入れて部屋に入ってきた“みるく”は、ニコニコ顔で「さあ、ケーキ」と言った。
ケーキと言われて私はずっと手に持っているのに気付いた。
「あ、ケーキを無事護ってまいりました」
私は驚いてばかりいたので、冗談でそれを中和しようと思った。
「はい、ご苦労様でした」
“みるく”も笑いながら受け取る。
「すごくいい家に住んでたんだねえ」
「そ、いいでしょ。離婚の慰謝料がわりにね、ぶんどったの」
“みるく”が少し怒ったような口調になり、私は“みるく”の意外な面を見たような気もした。
「だんなさん、あ、元旦那さんお金持ちだったんだ」
「よく知らなかったけれど、収入は結構あったみたい。外国人よ」
「ふ~ん、どこの人」
「アメリカ、もう帰ってアメリカにいるんじゃないか、あ、この話はもうおしまい。ケーキが不味くなるわ」
“みるく”にはおそらく辛い日々があったのだろう。ケーキを食べ終えた私は本棚を見つけて近寄っていった。
“みるく”が好きだという画家の画集があった。私の知らないロシアの画家の画集もあって、つい夢中になってみてしまう。
「あ、それいいでしょ」
耳元で急に声がして私はびっくりしてしまった。
「なによ、そんなに驚くことないでしょ、ずっと同じ部屋にいたんだから」
少しすねたような“みるく”の声、甘い誘惑の香り。私は少しどきどきしながら一緒に画集を眺めていた。
* *
私は気怠い身体をソファに横たえてピアノの音を聞いている。酔っているのはお酒のせいばかりではなさそうだ。部屋の隅に飾られたバラの花も関係がありそうだが、ピアノを弾いている君の姿が美しく官能的であるからだ。薄着の君が鍵盤と話しをするように身をかがめる時、ゆるやかに身体を揺らす時、まるで自分が優しく撫でられているような気持ちになって私の身体は次第に溶けてしまうのではないかと思った。
私の頭は朦朧となっていて、思考能力が落ちているのだろう。次第に霞がかって横顔が誰だかわからない。君は“みるく”だよね? 澪なのか? 相変わらずピアノの音は私の身体を撫で回し、もう実体もなく、魂だけになったような気もする。
頭の中で薄れ行く君の姿に言葉をかける。
「君に出会えてよかった」
了