嘆願書 人魚の生態に纏わる仮説と実証
cap.5 解剖所見とさらなる仮説
色々調査していくうち、興味深いことが分かってきた。
まず、最大の問題だった呼吸については、我々と同じ肺呼吸も可能だが、何よりも、皮膚からの呼吸が最も大きな比重を占めているらしいということだ。
人魚の皮膚には毛がなく、通常、汗腺となっている筈の組織が、酸素を濾し出すフィルターのような細胞となっているのだ。
人魚は汗をかけない。そして、身体中に毛細血管が張り巡らされていて、酸素と二酸化炭素とを交換するのである。ここで得られた酸素を肺に蓄えることも出来るようだ。さらに、腹部を切開すると、人間が誕生するときに閉鎖されるはずの臍帯血管に通ずる経路が残っていたのである。まだ不完全なようだが、臍のしわくちゃの皮膚が腹腔内に新たな組織を形成し始めており、この器官が発達すれば、人魚は臍で呼吸する。ということになるのかもしれない。いや、人魚の赤ん坊は、生後しばらくは臍で呼吸をしているのかもしれないのである。
そして、生殖の仕組みであるが、まずその前に下肢を覆っている膜の正体を明らかにしておこう。海上で嗅いだ匂いは、この膜から発している。粘膜が長い間に固着して、ビニールのようになっているのである。これはどこから発したものか、成分を調べてみると、鮮やかな色は、海中の珪藻類、貝殻、そして血液などを取り込んでいるのである。そして、この膜は何層にも重なっていて、それがあたかも鱗のように見えるのだ。
女性器から常時分泌される粘液が下肢に垂れ滴り、膜となる。人魚の場合、唾液も含めた全ての分泌物は、粘度が高い。私が砂浜で、半死半生で発見されたときにぬめぬめと光っていたのは、海水に洗われても落ちない、人魚の唾液だった。
人魚のふくよかな腰、臀部は人間と同じく双丘を成している。尻の割れ目にそって見ていくと、張り詰めた太腿がその先を閉ざしている。そこを押し広げてみると、股関節の辺りに、指二本程が入る、そこだけが脂肪質のトンネルになっているのである。
私はガイドの下半身を検分してみた。青黒く内出血をしている。根元が特にひどい。
つまり、人魚は足を広げることができないかわりに、太腿の後ろ側に導管を持っているのである。あとは、泳ぎで鍛えあげられた筋肉、括約筋の動きで、射精を促すのである。
では、ここでざっと他の大まかな特徴を挙げておく。
脊椎は直線的であり、人間のようなS字曲線をなさない。頚椎は頭蓋骨に接続するあたりで直角に折れ曲がっている。うつ伏せに寝て、前方を見ているような状態である。人間のように直立すると空しか見えない。泳ぎ姿勢からすsると、それで普通なのである。
骨はカルシウム豊富だが細い。全体にほっそりとしている。
毛髪は特に人間のものと違いは見られない。このサンプルの場合は、黒くて太くてごわごわしていた。
頭の比率は少々大きめだ。6.5頭身くらいであろうか。水の抵抗を考えれば、頭は小さくなると思われたが、逆のようである。
眼は白濁しているが、これは涙腺から粘度の高い涙を常に出して眼球を保護しているためだと考えられる。生きている人魚の瞳は琥珀のように柔らかな光を湛えている。
鼻は尖っていて鼻腔はとても細い。塩分調整のため、海鳥は鼻の辺りに塩分を濾し出す機構を備えているが、おそらく、人魚も喉の粘膜にそういった機構があるのだろう。従って、人魚は常に鼻水をたらしている。
耳には特に変化は見られないが、聴力は低いと考えられる。
匂いに関しては、切開して嗅覚細胞がいかにして海水に溶け込んだ匂いを感知するかを調査する必要がある。鼻の中に水の入らない部屋があるのかもしれない。匂いに敏感なことは、確実なのだ。
腕は身体にぴったりと添わせることができる。腰のクビレに肘の出っ張りが嵌るようなバランスである。泳ぐときには、手を両脇に添わして魚のヒレのように掌を使うのだろう。泳ぎはドルフィンキックで躍動的である。
足。これがもっとも驚いたのであるが、膜を切開してみると、足は人間のものとほとんど変わらないのである。ただずっと揃えて固定されているため、骨盤が上に広く下に狭くなり、左右に開くことは不可能である点。つま先が左右に180度開く程外側に捻れている点が異なるくらいだ。ふくらはぎはほとんど発達していないが、大腿部は素晴らしい筋肉に覆われている。
体脂肪は26パーセント程。これではやはり冷たい海での活動は不可能である。魚中心の食事と激しい有酸素運動の結果だろう。
皮膚は、背中側は日焼けのために幾度も皮が剥けて角質化し始めているが、腹側はむしろ白い。一般的な魚と同じだ。鳥などが上から見た場合、背中側が暗い色のほうが、海の色にまぎれて目立たず、底から他の魚に狙われた場合には光にまぎれる明るい色の方が目立たないという、自然の摂理に合っている。
歯は出ている。耳は小さい。手には水掻きのようなものが発達しつつある。そして、肌(腹側)は非常に薄い。保湿性はまるでなく、地上に上げるとすぐにひび割れてきた。水を離れては生きていけないだろう。
さて、ここからは憶測である。
脚を開けない人魚はどうやって出産をするのか。
私は、鮫に襲われた時に、輪の内側で守られていた人魚の尻についていた風船が、子宮ではなかったかと推察する。
卵を腹の中で孵す卵胎生というものがある。爬虫類なのに子供を産むといわれていたマムシなどがそうだ。この逆に、胎卵生とでもいうべきしくみで、子宮を、あたかも卵のように体外で育てているのではなかろうか。
海の組成は人間の体液に近いという。そして重力という制約のほとんどを、浮力で相殺できる。南海の暖かな海水で育まれる人魚の子供は、きっと水中での呼吸も会得しやすいのではないだろうか。
母親とへその緒で繋がった体外の卵。私は、これならば、あの股の導管からでも出産できると思うのである。
作品名:嘆願書 人魚の生態に纏わる仮説と実証 作家名:みやこたまち