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ネヴァーランド 138

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モーゼの微笑みに誘われてしまったのか、水中の右足は、いつの間にか前に出ていた。そうそう、それでいい、とモーゼに言われたような気がした。脳のどこかを掠めた反感に従い、左足を出さずに踏みとどまった。その姿勢をとったまま、僕はモーゼを睨みつけているはずだ。モーゼは睨まれても平気だ。僕に睨まれるのには慣れている。余裕綽々だ。
川面はせわしない三十二ビート刻みで、循環コードC・Am・Dm・G7に乗ってうち騒ぎ、交接欲に狂って寝つけない雄蝉どもは、相変わらずパローレ、パロレ、パローレ、とわめきたてる。
膝から下は、流れる湯水に浸かっている。両脚の右側に流れが当たり、這いずり上がる気配を見せてから、左側に回り込んで渦を巻き、かすかにふくらはぎをくすぐリ続ける。下を見なくても、この触感だけで、流れに入った時によく引き起こす錯覚に陥った。錯覚へ落ちろと音を立ててスウィッチが入った瞬間、横からの神秘の圧を受けてよろめきかけた。たちまち、知覚の転移があった。右の方の源泉に向かって、川の流れと同じ速さで逆向きに移動しているような、まるでスケボーに乗って、斜面を駆け上がっていく感じにとらわれた。ヒトミと一緒に小川に入った時もそうだった。水面から棒杭のように突き出た岩に並んでつかまり、連れ雲古をした。上流に向かって疾走しているようだった。淡水鮫の背びれにつかまって、湖面を切り裂いていく自分達を想像したものだった。
ああ、まったく、記憶によって色づけされる今以外に、今はない。
モーゼもまた頭を右斜め上方に傾けて寝そべったまま、僕と並行に、上流に向かって滑っていくように見える。両生類の分厚い舌が縁を波打たせているので、空飛ぶ絨毯に乗って滑空しているかのようだ。モーゼの姿勢には見覚えがある。どこで見たんだっけ。ヘレンの部屋では、壁に寄りかかってはいるものの、寝そべることはない。さて? …………施設ニッポンの体育館だ。頭が左に、立てた左膝と伸ばした右脚が右にあった。肘をついて頭を腕で支えていたことを除けば、あの姿勢とこの姿勢はほぼ線対称をなす。
モ―ゼを睨んでいるうちに、おや? その頭が左に足が右にと反転したように思った。頭蓋骨内壁の天井辺りが光源であるストロボが点滅するたびに、(ああ、大昔、そのまた昔のカメラのフラッシュを思い出す)、もとに戻り、また反転し、ニ三度繰り返した挙句、あきれたことにはもとに戻らないまま、体育館でのあの姿勢に定着した。それに伴って、川面の水音も蝉の鳴き声も、あのときの館内の大騒音にとってかわった。硫黄の臭いはこもる汗の臭いに、湯と蒸気の熱は、少年少女たちの発散する熱気に変わった。
錯覚に次ぐ錯覚。ひとつの錯覚が別の錯覚を誘発した。僕は湯の川を遡行しながら、時間をもまた遡行していた。

僕は見かけは旧式の大型マイクを命綱のように握り締め、壇上から声を嗄らして演説していた。自分が先天性咽頭小骨畸形のせいで、喋ることが苦手であると意識しすぎて、センテンスごとにいちいち勇気を払う必要があった。それまでは父としか喋ったことがなかった。妙なる音楽が流れるような、良すぎる滑舌を持った父に比べて、僕の舌の何とまどろっこしかったことか。キーボードでモニターに表現したほうが遥かに楽だった。大聴衆を前にして、実は緊張のあまり、ばったり倒れそうだったのだ。帝国にやってきて、市民の言葉を覚え、それに慣れ、淫しかけてさえいる現在とは、なんとかけ離れた状態にあったことか。ウヴな僕は心臓を吐き出しそうな具合で、演壇に登ったのだ。
僕はナイーヴさを恐れず、幼稚を恥じず、口を切った。
「聞いてください、同胞よ、紳士淑女諸君よ!」 
僕の背後の壁には、天井のすぐ下のところに額縁入りの標語が掲げてあった。フラクトゥ―アすなわちひげ文字の書体を使って、Studium macht Frei と書いてある。学習は自由をもたらす。その下にはその日だけのために大型のモニターが取り付けてあった。
聴衆は体育館にひしめいていた。年配者や児童もいたが、大多数は同世代の者達だった。皮膚の色でグループごとに塊が出来ていた。最も遠いところに白っ子たちの集団があった。女子の白っ子は男子とほぼ同数いる。僕の部屋にも来たのだから、白っ子の女子がいたのは確かだ。黒や褐色の皮膚を持ったグループが散在していた。体育館の中央に最も大きな集団があった。その真ん中にガキ大将然としたモーゼが寝そべって時々大声で野次を飛ばしてきた。まわりのヤンキーたちも、騒ぎ野次り手や足で床を鳴らしつばを吐いた。情婦らしき女の子たちも混じっていた。最大の多数派である枯れ草色の皮膚をした者は、比較的行儀がよかったが、話は聞いていなかった。立ち歩いたり、走り回ったりする者はいくらもいた。跳びはね、バク転していたのは、もしかしてリトルモーゼだったのか? 白っ子は、動かないが、野次は飛ばしていた。声が小さいので僕には聞こえないだけだ。
誰が飛ばすにしろ野次がひどく訛っている。こちらの言うことも理解不能だろうとは容易に察しられた。聴衆の注意をひきつけるために、演説を一時中止することにした。
「私は想像を絶するような経験を近頃得ました。皆さんの想像をも絶するはずです。私はそれを自分だけのものにしておいてはいけないと思いました。その一部でも皆さんと共有したいと思います。一緒にそれを検討することによって、私達がいまどこにいるか、これからどうしたらよいかを私達で決めるよすがとすることが出来るかもしれません」
館内は依然騒然としていた。僕は演壇の上のパソコンを操作して、背後のモニター上に、父の作成した3DCGの動画像を映し出した。
牙をむく吾郎の顔面がアップで現れた。たちまち聴衆は静まり、固唾を呑んだ。やがてあちらこちらから押し殺したため息や叫び声が聞こえてきた。川が流れ、森林が風に揺れる。吾郎の背中に乗った僕の視点から撮った設定の画面が、川に沿って移動し、水中に佇む肉食竜をとらえた。川下に長く尾を流し、水中の獲物を狙っているふうだ。うめき声、叫び声が高まった。火山の爆発の際には大声が上がった。
僕は3d画面を次々に映し出す。大蛇が飛び掛ってくる。タランチュラ、両生類、甲殻類、プテラノドン、ステゴザウルス。体育館は騒乱状態に陥った。