串刺し王の玩具
5.成層圏迄はどんなに急いだってひと月はかかるものと思わなくてはならん
見上げると落下の航跡が飛行機雲のような帯となり、重力に引かれてゆっくりと下りてきた。それは彼の鼻先に白粉花のような匂いを残しつつ、彼の前方に流れていった。彼は躊躇することなくそれに付き随い、黴臭さにむせそうになりながら、地下道らしい一本道を這って行った。
道は上下左右均等に狭まっていった。苔の感触を腹に感じながら、彼は匍腹前進を続けた。圧迫は次第に強くなった。背中も柔らかな苔になぶられ、とうとう頭の先を、もう数ミリたりとも前進させることが不可能な状態に陥った。止まろうとする彼の意志に反して、ぎこちない歯車仕掛けのような身体が前進の為の運動を継続していたが、その踵ですら、もう天井と床との間に斜めに固定されていた。
頭をくねらせて尚も先へ進もうとしている内、身体を失ったような感覚に捕われた。四方を柔らかな苔に固定され、しかも圧力が身体全体に均等にかかっている為なのだろう。彼は、無辺縁の空間を浮遊していた。鼻に苔の旋毛を吸い込んでくしゃみをしたくて仕方がなかったが、もはや腹筋の一筋ですら動かすゆとりはなかった。それでいて彼は完全にどこからも支えのない、まるで羊水の中に浮かんでいるかのような平安を感じていた。かすかな息苦しさに気づいたのは随分後のことだった。
押し込められてどれほどの時間が過ぎたのか知れない。彼の目の前を、再び霧のような微粒子が覆っていった。それは徐々に密度を増していき、彼の身体や周囲の苔や石組を覆い隠して、全く別の世界を形成し始めていた。この閉塞と開放の中で、窒息の恐怖だけが彼を現実に繋ぎ止めていた。
彼は確かに死の誘惑を待っていた。しかし、このような自意識を無視された死を望んでいたのではなかった。彼の髪がかすかに揺れた。もっとやせ細った人間がほんの少し先の、つむじに触れるか触れないかといった所に詰まっているような気がした。体内にも霧が侵入し、この圧迫も浮揚も身体の内も外も、そして、地下道の内と外ですら曖昧になり、彼は深い深い夜に漂いながら、死はどんな物でも死なのだと悟った。
「迂闊な事をするから、あんな特集記事を残されるのだ。発見が早かったから良かったようなものの、もしあの続きが公になっていたら、我々は磔火刑になるところだぞ」
最初に彼の耳に届いたのは、初老の嗄れた声だった。彼は自分がまだ死んでいないという事に気づいて、身体を起こそうとした。鼻先も見えない闇の中で、彼は、ゴツゴツしたものに、額をいやというほどぶつけ、うめき声を上げた。
「何か聞こえたようだがな」
「鼠よ。地下にうようよいるのよ。全く、嫌になる」
「それで、計画はどうなっているんだ」
「だからだ。成層圏迄はどんなに急いだってひと月はかかるものと思わなくてはならん。問題なのは、そのための食料と水を背負った身体で、その高度にまで昇れるか否かだが、これは近々実験をしてだな・・・」
「成層圏は寒いらしい。防寒の準備も忘れちゃいけない」
「紫外線。肌にとても悪いのよ。だから私は辞退するわ。もっと素敵な所があれば、そちらの方がよっぽどいいわ」
声は上から聞こえてきた。だから彼は自分が地下室にいるのだと思った。額と、背骨と、股関節の痛みを堪えながら、彼は慎重に顔を上げた。闇に目が慣れてくると、自分のいる場所がマントルピースの中だという事が分かった。マントルピースから這い出ると、わずかに空間が広くなった。彼は、ゆっくりと背筋を伸ばした。その途端、彼は再び額に軽い衝撃を受け、戦いてしゃがみこんだ。
コツコツという規則的な打撃音が、彼を中心に波紋のように広がっていった。彼はおずおずと天井を見上げた。頭のすぐ上で何かが揺れており、そこを中心に、闇が揺らめいていた。彼は、息を詰めて目を凝らした。
揺れているのは、靴だった。木靴からエナメル靴まで、夥しい数の靴が部屋一杯にぶら下がっているのだ。微かな隙間明かりを反映する鋲の瞬きは、彼の神経の奥深くに達した。
「靴の先にはズボンがある。そしてその先には・・・」
彼は、激しい嘔吐感に苛まれた。咽喉から、ねじ切られるような音が漏れた。ともすれば大声で叫ぼうとする身体を、死に物狂いで抑え付けた。身体のあちこちが、バラバラに、ここから逃げ出そうともがいていた。それらの相克のなか、結局、彼は、指先一つ動かすことができないで、静止し続けていた。コツコツという音のくり返しのなかに、会話の続きが聞こえてきた。
「駄目駄目。今回の目的は匿名で同志を募る事にある。広範囲に呼びかける為には、どうしたって昇る必要があるんだ」
「だって、一月もかかるんでしょう。ひたすら空を見ながら。馬鹿みたい。気儘な身分じゃないのよ。有給だって満足にもらえないっていうのに」
「なんて、志の低い女だ。なぜ、お前のような者に、この能力が備わっているのか、理解に苦しむ」
「まあまあ、もめても解決はしませんよ。さりとて、学識経験者に意見を聞くこともできず、性格も生活もばらばらの三人が集まったところで、良い知恵が出る訳もなし。頭なんぞ使うとろくなことはないんだから」
「いつもこうだ。能力は素晴らしいものだ。しかし、何故こう揃って無能ばかりなんだ。建設的議論など一度もできやしない」
「何よ。こんなもののせいで随分肩身の狭い思いをしてるんじゃないの。こうやって時折気儘に飛ばなくちゃやってられないし、それだけで十分よ」
「そういう迂闊な事をするから、危ない目に遭うんだ。全く、自覚がまるで無い」
話し声は明瞭だった。彼は、とりあえず正体不明な者達が話している言語を理解できることに、安堵した。だが、内容は支離滅裂だった。連中は鳥のように飛べるとでも言うのだろうか。
彼の脳裏に、噴水広場で見た染みの記憶が、呼び覚まされた。やはりそれは女で、それが、今話している女だったのかもしれない、と思った。彼女達もまた病院で診断を受け、この療養所へ送り込まれてきたのだろうか。すると、自分もまた……
考えているうちに、彼は平静さを取り戻しつつあった。ゆっくりと前進し、探り当てた扉を少しずつ開いた。闇が薄くなった。彼はようやく正気を取り戻せたと思った。だが、すると先ほどまでの推論が、荒唐無稽に思われてくるのだった。
「飛べるのなら、何処へだって逃れられるはずだ。やはり、飛べると思い込んでいるだけの、狂人達の集まりなのだ」
彼は溜め息をついた。手掛かりを得る為には、彼らと話す必要があった。しかし、狂人達はどんな振舞いに及ぶか分からないのだ。
「自分も、飛べる。と思い込んでいる芝居が出来れば、彼らの仲間に入れるかもしれない」
方法はこれしかないように思えた。彼は意を決して足を踏み出した。が、その途端につま先を激しく何かにぶつけた。まるでドラを打ち鳴らしたかのような音響が響き渡り、風化していたらしい壁の一部を崩落させた。
「よほど古い建物のようだ」
濛々たる粉塵のなかで、そのようにつぶやく彼の冷静な部分は、無力だった。そうつぶやき終えるのと同時に赤い衝撃が走り、彼はまた意識を失った。