ミヨモノリクス ―モノローグする少女 美代の世界
十二月 翅
「ミヨちゃん。どうした。元気なミヨちゃんになってまたあのベンチに座ってくれなくちゃ。主事の椅子だって空けてあるんだからね」
おじさんが、そう言ってニコニコ笑っている。
「ミヨ様。私、貴女にとても大切なことを教えていただいたのに、肝心な時にはお役に立てないなんて。私、父なる神にお祈りしますわ。私は、本当にあなたのお陰で救われたというのに、私は何のお力にもなれないなんて。でも神の思し召しはいつでも貴女と共にありますわ。お気を確かにお持ちになって、きっときっとまた、あのお部屋でお話をいたしましょう。そうだわ。今度、貴女のお部屋に薔薇を差し上げますわ。それは良い香りですの。きっと心も晴れてよ。修道院へも遊びに来てくださらなくては困りますし。私、貴女のことを、本当に大切な友人だと思っていてよ」
彼女、全く変わらない。
「ミヨちゃん。いつまでも甘えていては駄目なのよ。ちゃんと自分で立って歩かなくちゃ駄目なのよ。ミヨちゃんは本当は頭の良い優しい子なのに、わざと神経を逆なでするようなことばかりして、それで振り向いてもらおうとするなんて、甘えんぼの証拠なんだから」
姉さん、ハギノになってしまった。私は結局彼女を救えなかった。
背中が痛い。肩こう骨がベッドのスプリングに擦れて、皮が剥けて赤い。私はこれだけのものだったんだなと、しみじみと思う。ひとしきり見舞いがあって、あとはもう誰も来ない。母親も川井も、ついていたそうな素振りをしていたけれど、ここは付き添いお断りだから助かる。この体たらくをぞろぞろと見物にこられては堪らない。私を疎んじる人々が憐れみを与える喜びを得る時なのだ。私は引き千切られるような痛みに絶えてうつ伏せになる。全身がひりひりする。そっと点滴の針を抜いて、両手を胸の下で組む。
夜が更けていく、らしい。この部屋には窓が無い。息が苦しい。生暖かい。ぼんやりとした明かりの向こうで私を取り巻いている四方の壁は、なだらかな曲面を描いている。静かだ。私はだんだん心が安らいでいくのを感じている。これまでの自分が、無様な営みをしているのが見える。春、夏、秋、冬と、辛いことばかりだったなと思う。
背中が、痛い。私はびくりと膝を抱える。うつ伏せのまま。首が折れそうなほど痛い。
どうして私は、こんなに辛い生を生きなくてはならなかったのだろうか。私の血が汚れているからだろうか。愛される努力をしなかったためだろうか。それとも、既に長く生きすぎた為だろうか。
結局、私は何の意味も無いまま死ななければならないのだろう。私は負けたのだ。自分の身体、この肉体に負けたのだ。
肩こう骨に錐を突き立てられているようだ。そこから、身体が張り裂けそうだ。
身体が裂けて、新しい物が現れたら、その新しい物には過去の記憶は残っていないのだという。蝶は青虫だった時のことを知らないし、蝉は土の中を知らない。それらは、過去の屈辱の記憶を凍結し、美しい翅に変えることで全てを忘れ飛べるようになるのだ。それは天使の羽根のようではないけれど、私にはそちらの方が似つかわしい。
全身が熱くて痛くて、寒気がする。目の前に私の部屋が立ち上がる。この部屋、あまり好きではなかった。でも、ここからしか次は始まらないのだ。今度こそ、生身の皮膚に風を受けて、自由に飛ぶことが出来るだろうか。
何て不完全な生命。眠くなる。
何て不完全な身体。だるくなる。
そして私はあの泥の繭の中で眠った至福の時を思いだす。長い長い眠りだろうか。それとも刹那の夢だろうか。
真赤な暗闇が下りてくる。
ものすごい勢いで。
苦痛も快楽も喜びも悲しみも怒りも諦めも慈愛も冷血もいっぺんに通りすぎた。
朝ぼらけの柔らかな光が満ちる。
痛みは無い。
ただ異物感だけが時折私を私だと気付かせる。
やがて、それも無くなる。
何も無くなる。
(ミヨモノリクス 完)
作品名:ミヨモノリクス ―モノローグする少女 美代の世界 作家名:みやこたまち