欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~
『地下施設・非常脱出口』 十二月五日 深夜
もう一時間も上っただろうか。上を見ても下を見ても暗闇で先が見通せない。革の手袋の中は汗でぐしょぐしょになり、全身からも汗が止めどなく吹き出す。やがて腕の筋肉はこわばり握力も無くなってきた。土踏まずに至っては一段登るごとに、いちいち圧痛を感じるほどだ。
俺は少し休憩をすることにした。命綱のフックが、ハシゴにしっかり固定されているのを確認してからリュックを開けた。中からチョコレートを取り出し食べてみる。疲れからかとても美味しく感じたが、すぐに尻がズキズキと悲鳴をあげ始める。何しろ細い鉄の棒に全体重をかけて座っているのだから無理もない。
痛む尻をずらしながらヘッドランプでぐるりと辺りを照らすと、ハシゴの周りはびっしりと銀色の壁で囲まれているのが分かる。その壁は、圧倒的な質感を持ってだんだん俺に迫ってくるように感じた。
頭を振り、持ってきた水で喉を湿らすとふいに気合いが戻った。絶対に弱気になってはいけない。恐怖という感情は、俺の足を掴んで引き摺り落とすのだろう。俺は「よっしゃあ! まだまだ行ける!」と叫んで気合を入れたあと息を深く吸いこみ、またゆっくりと確実に登り出した。
「カチッ! はあはあ……カチッ! はあはあ……」
暗闇にフックをかけ直す奇妙なリズムと、自分の呼吸音しか聞こえない。時計を見るともう朝の四時になっている。休憩をとる感覚もだんだん短くなり、少しでも油断すると、暗闇に足をつかまれる妄想で精神がどうにかなりそうだった。
何度目の休憩だろうか。ふと横をみると、手の届きそうなところにひょっこりと赤いバルブが突き出ている。バルブを目でたどると太い配管に繋がっていて、身を乗り出して触ってみるとそれは冷たかった。
(これがもし飲める水だったら、飲料水として補充しとくか)と、バルブを力いっぱい回してみた。
「ブシュウウウウ!」
滝のような勢いで真下に水が噴き出し、飛び散った冷たいしぶきで身体がびしょ濡れになる。
だが、火照った身体に水滴の冷たさが思いのほか気持ちよく、しばらくそのまま水滴を浴び続けた。上手くバルブを調整して水筒に汲んでみると、透明な水だったのでそのままがぶ飲みしてしまった。これでしばらく飲料水に困ることはないだろう。
途中何個か同じような赤いバルブがあるのを確認したが、それらをもう回してみる元気などみじんも無かった。
もう一つ小さな発見もがあった。どうやら施設側にあたる壁からは、非常時に長方形の跳ね橋がハシゴに向かってかかるようになっているみたいだ。だがもうすぐここはコンクリートで塞がれてしまうので、もう使い道はないだろう。
更に一時間ほど登ったときであろうか。
疲れからタイミングが少しずれ、不意に足が滑りがくんと身体が下に落ちた! 安全フックをかけた瞬間の出来事で、俺は暗闇に腰だけでぶらんと宙づりになる。
(フックがもし間に合ってなかったら)と思うと、身体中からいやな汗がとめどなく噴き出した。痛む腰に注意しながらゆっくりと体制を立て直す。
「もういやだ! 最初から無理だったんだよ、こんなこと!」
もう自分が誰に対して怒っているのか分らない。ただただ、俺は何かに腹を立てていた。何か叫ばなければここで精神をおかしくしてしまう。ぶつぶつ言いながら目を固く閉じ、髪の毛を掻きむしった。
その時、突然頭の中に鮮明な映像が浮かんだ。
《秋風が吹くいつもの乗馬コースで、愛里と並んで馬にムチを当て疾走していた。空には雲一つない青空が広がり、どこからかキンモクセイの香りが漂ってくる。
カーブを曲がるとき、急にバランスを崩して俺は空中に放り出されしまった。苦し紛れに空に向かって手を伸ばす。そこに愛里の白く細い手が延ばされ、意外なほどの力で腕をしっかりとつかまれた。次の瞬間にはひっぱりあげられ、俺は彼女の馬の後ろにちょこんと座っていた。
愛里は振り向き、天使のような微笑みを浮かべながら『あなたの身体は、もうあなただけのものじゃないのよ』と優しく耳元でささやいた。胸の中がぽっと暖かくなり、指先までその暖かさが走った。そして二人はそのまま、何かの光に向かって飛び込んで行く》
――ここで我にかえった。少し過呼吸になって意識が飛んでいたのかもしれない。しかしキンモクセイの香りは、なぜかリアルに鼻の奥に残っていた。
「何だろう今のは? やけにリアルな夢だったな」
ギャラリーもないこの挑戦で、たとえ登り切ったとしても賞賛の拍手などはない。見渡す限り深い暗闇と銀色の壁は、いつまでたっても俺を拒否しているみたいだ。
しかし、俺は決して一人ではない事に気付いた。気のせいか指先にもまた力が少し戻って来たような気がする。ほっぺたを両手で強くぴしゃりと叩くと、全ての痛みを遮断してまた力強く登りだした。
……もうどれくらい登ったのだろう。ふと何か予感がして上を照らすと、暗闇だけだった空間に丸い銀色の天井のフタが見えた。今までいくら上を見上げても暗闇ばかりだったので、ここがゴールだと理解するのに時間がかかった。
「やったぞおおおお!」
掠れた声で叫んだ。今までの人生で、こんなに大声で叫んだことがあっただろうか。
非常口のフタは、いざという時のために常に下から開くようになっていると、マニュアルで確認してある。当然普通に開くものと思い、俺はフタについているレバーをCLOSEからOPENに動かそうとした……がCLOSEの位置からレバーが全く動かない。
完全にロックされている! 目の前の事態がよく呑み込めない。非常口にロックをかけるとかバカな話があるか! 俺は急に気力がしぼんでいくのを感じた。一体誰がここに電子ロックをかけたのか。頭の中が真っ白になり、目の前が暗くなっていった。
……尻の痛みで目が覚めた。いつの間にかハシゴの段に座って失神していたらしい。時計を見ると朝の七時をまわっていた。夢ならいいと思い、もう一度レバーを動かそうとしたがびくともしない。
もう現実を受け止めて何か脱出方法を考えないとならない。だが、ここからスタート地点まで戻る体力は無いし、たぶん途中で落下してしまうだろう。足と尻の痛みに耐えながら、必死に俺は考え抜いた。
「そうだ!」
作品名:欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~ 作家名:かざぐるま