欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~
『東京・永田町』 十一月十日 正午
太田勝利は部下ひとりを連れ永田町にいた。この日の太田は黒いスーツをビシッと着こなし、完全にどこかの会社員に見えた。まさかこの男が、この後日本を揺るがす大事件の主役になるとは誰も気づいていないに違いない。
ここは国会議事堂を始め最高裁判所や、各政党の本部などが集まる日本の政治の中心街だ。
今日は天気のいい日で風が心地よく、さっきまでの地下鉄構内独特の匂いを、さっぱりと洗い流してくれそうだ。
手をかざして見上げると大きなビルディングがところ狭しと立ち並び、その下をスーツを着た人々がアリのように歩いている。
約束していた時間ちょうどに、ホテルニューオータニのラウンジに飛び込んだ。すると先客はもう指定された席に座り、コーヒーを美味しそうに飲んでいた。
「どうも深川さん。お久しぶりです」
太田はニッコリと笑いながら、握手をするようにゆっくり手を差し出した。
「どうも。太田さん、早速ですが頼まれていた例の件の関係者リストが、この中に入っています」
深川はすばやい身のこなしで立つと、メモリーカードを手のひらに隠して握手を交わす。
官僚畑を長く歩いてきたせいか、いつもは表情の無い顔をしているが太田に会うときだけはその眼に人間らしさが蘇る。そしてこの男に、太田は全幅の信頼を寄せていた。
「ありがとう。ところで深川さんは『独立の日』の後、どちら側に身を置くのですか?」悪戯っぽい目をして小さな声で問いかける。
「そうですね……。ずいぶん悩みましたが、ずっと官僚という仕事をしてきて顔もそれなりに広いですし、まだこちら側で何かお役にたてるかもしれません。あなたのためにも、もうしばらくこちら側にいたいと思います。もちろん情報は引き続き集めるつもりです」
深川の眼は何かを決心している男の眼だった。
「なるほど。しかし、気が変わってもしこちら側に来る時は連絡下さい。喜んでお迎えにあがります。では、この大谷くんをしばらく永田町に常駐させますので、何かあれば彼に伝言をお願いします」
「分かりました。もしも何かの事故で私が消えた場合は、バレたと思っていただいて結構です。……その時は、女房と子供の事をくれぐれもお願いします」
この時ばかりは寂しい横顔を見せた。何か不吉な予感でも感じているのだろうか。
「はい。くれぐれも気をつけて下さい。まさか総理大臣付きの官僚が疑われるとは思いませんが」
太田は、商談が終わったサラリーマンのように丁寧なお辞儀をして、ラウンジを出た。心の中で深川の気持ちに激しく感謝しながら。
これにはいったい誰の名前が入っているのだろうか。小さいメモリーカードなのに、ポケットの中に入っているそれは太田にはずっしりと重く感じられた。
愛里の母親を謀殺した犯人は誰なのか。
(ひょっとして、眠れる獅子を起こしてしまう事になるかもしれないな)と考えながら、タクシーを止めるために手をあげた。
作品名:欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~ 作家名:かざぐるま