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政治と芸術の分離点。古代中国の殷周革命と詩歌


 さて、では政治と芸術とは、いったいいつ、どのようにして、今日わたくしどもが政治、芸術、と呼ぶような形に、分離したのでしょうか。わたくしはそれを、わたくしが多少なりとも通じております、文学を手がかりにして調べてみようと思います。
 文学の発生史について論じますことには、いくつかの問題がございます。まず地域によってそれぞれの発生史があること。中国には中国の、メソポタミアにはメソポタミアの、インドにはインドの発生史があり、それらを一緒くたに論ずることには少なからぬ問題が生じます。もうひとつは、伝承や遺物の発見が充分でないために、発生史を構築すること自体が難しいという問題です。これはとくに『ギルガメシュ叙事詩』で知られるところのメソポタミア文明において顕著です。何しろメソポタミアの文学のみならず、文明自体が、二千年近くも忘れ去られていたのですから。
 しかしそれでもなお、文学を後世に残そうという古代の人々の情熱がなせる業でしょうか、はたまた、不滅ならざる生命に比して、不滅たる性質を得た文学自体の力でしょうか、今日わたくしどもが読める少なからぬ量の古典から、概説を述べることはできるようにも思います。
 ひとまず、ある地域ごとの、今日わたくしどもが手に取れる、初めの文学的典籍と呼べそうなものを、いくつか挙げてみましょう。『ギルガメシュ叙事詩』、『リグ・ヴェーダ』、『詩経』、『旧約聖書』、『イリアス』、『万葉集』といったところでしょうか。
 これらを調べてみますと、文学の初めの形態について、いくばくかのことが見えてまいります。文学は、初め祝詞であり、託宣だったでしょう。この形態がうかがえるのは、『リグ・ヴェーダ』であり、『詩経』であり、『旧約聖書』中の詩歌であり、『万葉集』です。神への問いや祈願の詩歌、巫祝が神がかりして歌う詩歌こそが、文学の初めの形態だったようなのです。今日でも、例えば宮古島のユタが歌う詩歌などに、この形態を見ることができます。『リグ・ヴェーダ』の神々への讃歌は、祝詞そのものです。モーセが巫祝-預言者-であったことは申すまでもございませんし、『オデュッセイア』にも神託の場面が度々表れます。文学の原初的な形態としての祝詞、託宣は、それぞれの地域における古代文明に共通してあったと言ってよいかと思います。
 それでこの形態における文学は、殷の甲骨占いと同じ状態にありますから、いまだ政治、また宗教と不可分です。それは個人が個人の感性によって創作したり、個人の目的のために鑑賞したりするものではなく、氏族制小規模社会の公共性の中で作られ、ただ公共の善のために、鑑賞されるというよりも、用いられます。
 では、文学が次の段階、個人が個人の感性で創作したり、鑑賞したりするようなもの、少なくともそのような要素が芽生えるようになるのは-それはすなわち、芸術の政治からの分離を意味しますが-いつどんなときだったのでしょうか。皆さん、わたくしはそれを中国の、殷周革命を以て解き明かしたいと思います。
 周は、殷を打ち破って、中夏史上初めて、封建的な統一国家と呼べるものとなりました。それはひっきょう、氏族制小規模社会の崩壊を引き起こしました。周以前に最も強大だった殷にしても、その支配は黄河流域に限られており、その社会は、いまだ氏族制小規模社会の形態を脱していなかったようなのです。この革命による、氏族制小規模社会の崩壊と、封建的大規模社会への移行は、人々に何をもたらしたでしょうか。皆さん、それは今日、"封建的"という語によって形容される観念とは反対に、個人の意識の、公共社会からの開放でありました。それまで自らの共同体-氏族社会-に自己を見ていた人々が、ここにおいてようやく、自らの体ないし心を指差して、「これは私である」と強く意識するようになったのです。周の国土は余りにも広すぎ、その国民は余りにも多すぎ、その全体をもって自己とすることは、到底できることではなくなってしまったのです。
 『詩経』と『楚辞』に、その変化の様子をうかがうことができます。そこではいまだ文学の原初的な形態、共同体において用いるための祝詞や託宣の要素が色濃く残っている一方で、一個人の心象、情熱が、早くも高らかに歌われております。古代中夏の詩歌の、共同体における政治的目的を含む実用品という要素は、順次失われていき、魏の曹操において、ついにまったく個人的な感性による創作と個人的な鑑賞を前提とした、創作詩へと辿りつきます。皆さんの中には愛唱されている方もいらっしゃるかと思いますが、彼の『短歌行』のさわりを唄わせていただきます。

  酒に対してまさに歌うべし
  人生いくばくぞ
  たとえば朝露の如し
  去る日はなはだ多し
  概してまさに以て慷(コウ)すべし
  幽思忘れ難し
  何を以てか憂いを解かん
  ただ杜康(トコウ)有るのみ

 (酒を前にして歌おうじゃないか。人生など、何ほどのものだというのだ。それは朝露のように儚いものでしかないし、日々は速やかに過ぎ去ってしまう。いつも意気盛ん足ろうとはするのだが、心にわだかまった思いは忘れ難い。何を以て憂いを解いたらよいだろう、ただ酒あるのみだ)

 いかがでしょう。ここでは自己は、今日のわたくしたちと何ら変わらぬものとなっていないでしょうか。氏族的共同体が滅びるとともに、個人は自由な自己を獲得し、芸術は、政治的な目的から開放されて、個々人の感性と自由な目的を得ました。
 「けっこうなことではないか」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。「芸術は、個人は、ようやく自由を得たんだろう?」と。しかしちょっとお待ちください。この曹操の『短歌行』をもう一度振り返ってみてください。ここでは人生の無常と虚無が歌われ、酒と歌のみが拠り所である、というように歌われているではありませんか。この詩歌は確かに美しく、雄渾で、何度も愛唱したくなる、優れた芸術であるとわたくしは思いますが、一方で、共同体からの自由を得た個人の、寄る辺のなさをも痛感いたします。それは自由を得、孤独となった芸術の、共同体とともにあった頃への、憧憬のようにも感じるのです。結局のところ、個人は、芸術は、自由になったというよりもむしろ、封建的大規模社会の到来によって、公共社会に働きかける力を失ったと申しすべきかもしれません。

 わたくしたちはいま、芸術の政治との分離について、中国の古代文学を題材に、社会形態の変化にその原因を見ました。ここで、もう少し別の観点で、芸術と政治の分離点を見てみましょう。と言いますのは、先に申しました通り、文学だけをとってみましても、地域によってそれぞれの発生史があるからです。