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古代-不可分だった政治と芸術。洞窟儀礼と甲骨占い


 さて、相も変わらぬ伝統主義者のわたくしとしましては、やはり古代から見ていくことをしようと思います。何を迂遠なことをと思われるかもしれませんが、古代の父母祖と今日のわたくしどもとは、存外遠く隔たってはいないかもしれません。ものは試し、しばしお付き合いください。
 広く最古の芸術とされていますものに、洞窟壁画がございます。それは歴史学上は古代よりも前、先史時代ないし原始時代ということになりますが、とにかく大昔のものです。フランスのラスコー洞窟やペシュメルル洞窟、スペインのアルタミラ洞窟などが著名ですが、アフリカや東南アジア、オーストラリア、中米から南米にかけても発見されています。その多くは狩猟動物を描いたものですが、抽象的な、装飾的な文様や、またたくさんの手形が残されているものも多くあります。
 この写真(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/SantaCruz-CuevaManos-P2210651b.jpg)は、アルゼンチンのラス・マノス洞窟の、おびただしい数の手形です。まったく同じようなものが、ラスコーやペシュメルルなどでも見つかっています。それにしても、このように創り上げた場で、わたくしたちの父母祖は、いったい何をしていたのでしょうか。残念なことですが、いっさいの伝承が失われた今となっては、誰にもわかりません。ある壁画については、わたくしたちの父母祖たるクロマニヨン人ではなく、ネアンデルタール人によるものだという説もあるほどです。ネアンデルタール人がクロマニヨン人と混血している可能性があるという、近年議論の激しい問題には、ここでは立ち入らないこととさせていただきます。
 話を戻しますと、しかし例えば、この写真のラス・マノス洞窟に何も知らないわたくしが行って、「今夜ここでパーティがあるんだ」と聞いたなら、まったく懐疑を差し挟まないでしょう。ラス・マノス洞窟の天井には、ボーラと呼ばれる投擲武器を赤く塗って埋め込んであるといいます。壁画や天井の装飾を、わたくしはパーティを盛り上げるための、やや無骨だけれども粋な装置と見なすでしょう。手形の群れについては、入場料を払った証明か何かだと思うかもしれません。そしてわたくしは、その夜ここで鳴る音楽や歌を幻聴し、わくわくすることでしょう。
 実際には、単なる"宴会"ではなかったでしょうけれども、しかし手形について申しますと、本当に入場証明だったかもしれません。こうした洞窟で何が行われたかについて、ミルチャ・エリアーデ流に説明しますと、洞窟は子宮であり、そこで行われたのは、死と再生を通過して社会の成員となる儀礼、ということになります。この説明は多くの研究者において合意されていますし、わたくしにももっともらしく聞こえます。それは伝統的小規模社会において、今日もそのような子宮を模した場での通過儀礼がよく見られるからです。そのような儀礼においては、宗教と政治と芸術とは、一体となっています。長老は祭祀を取り仕切り、音楽や歌が奏でられ、踊りが舞われます。子供たちは何らかの試練を通過して、ひとりの人間として社会に、政治に参加することを許されます。政治と芸術と宗教とは、総力を結集して、ただ何かしらの善へと向けられます。そこでは当然、芸術も細分化されません。美術、音楽、文学、舞踏が、協調してある善ないし美を目指すのです。演劇はしばしば総合芸術と呼ばれますけれども、それは演劇がこうした儀礼を模しているからに他ならないでしょう。

 もうひとつ、政治と芸術の古い形態を見てみましょう。中国では、今も昔も最も高等とされている芸術は、書であります。それは古くは中夏と呼ばれたこの土地の、文字についての歴史に関係しています。
 この写真(http://homepage2.nifty.com/tagi/koten028.jpg)は、殷の時代の、亀の腹甲に刻まれた文章です。亀の甲羅の他に、羊などの骨に刻んだものもあるため、甲骨文と呼ばれております。書かれておりますのは、「この秋の収穫は多いか、少ないか」ですとか、「今度の戦争は勝てるか、勝てないか」というような、神ないし父母祖の霊に問いかける、占いの文句です。文字を書いたら火にくべて焼き、甲羅や骨は焼くとひび割れますから、その割れ方で吉兆を知り、甲骨は文字とともに人々に示されます。この文字を書き、甲骨を焼き、ひび割れを見るのが王自身だったことは、刻まれた甲骨文からわかっています。そしてその儀礼は、洞窟儀礼で見てきたような、総合芸術的なものだったことでしょう。文字は人間に向けて書かれているのではなく、神に向けて書かれています。宗教と芸術は、ここでひとつのものです。そして占いによって神と対話することのできる王は、人々を支配する権利を得ます。ここで政治は、宗教と芸術とひとつになるのです。この混交状態は、周や春秋、戦国時代を経て、漢代の初期まで、金文という形で受け継がれました。金文は、神への供物を入れる青銅器に鋳込まれた文章です。金文においては、書だけでなく、美術も混交しているわけです。
 殷の話をしましたから、ここで美という字についても申し上げましょう。美は、羊の字に似ていますね。実は美字は、もと羊の美しさを表したものです。殷人は羊を犠牲獣として、雨乞いなどの祈願と占トをしました。インドなどにおけるアーリア人たちも同様です。芸術がこのような祭祀から生まれ、祭祀が芸術と不可分だったことを示すひとつの証左でしょうか。

 ふたつの例を見てきましたが、政治と芸術、そして宗教は、こんなふうに、古代には切り離されてはいませんでした。そこでは芸術的効果-美-の強さないし高さは、そのまま政治的ないし宗教的効果の強さ、高さとなるのです。
 皆さんの中には、こう思われる方がいらっしゃるかもしれません。「それは単に未開な社会での出来事で、政治や芸術もまた、未開だったというだけのことだ」と。そう言えるかもしれません。しかし何はともあれ、わたくしたちの父母祖においては、そういう状態が確かにあったのだということを、わたくしは申し上げたかったのです。