トウキョウモノフォビア
朝。ぼんやりと目覚めた私を、ちょっとした違和感がそっと撫でた。
「……?」
太陽の光が燦々と、質素な部屋に降りそそいでいる。
まだ眠たい目をくしくしとこすって、体温でぬるく温まったベッドを離れる。素足にひやりとした床の冷たさを感じつつ、軽く体を伸ばした。外で雀たちがさえずっている。
壁かけ時計は、ちょうど七時を指していて。私を焦らせるには十分だった。
「やばっ……遅刻!」
今日は朝練に、憧れの先輩が来る日。遅れて行っては、後輩たちに示しがつかない。
大慌てでパジャマを脱ぎ捨てて、学校指定のジャージに着がえる。《通常登校以外――朝の部活練習などがある生徒には、特例として……『ジャージ登校』を許可するっ!》。今回の生徒会長が新しく作った校則が私を毎朝助けてくれているのは、もちろん言うまでもない。生徒会長、愛してる。
ちなみに私も生徒会長も女だけれど、あいにく私にそんな趣味はない。
リビングに降りると、朝食がなかった。それどころか、人の気配なんてしなくて。
気温がすっ、と下がった気がした。
「おかーさん、どこー?」
ふいと、呼んでみる。当然というか、返事はない。
少々の不安を憶えながら、和室、トイレ、庭……と巡ってみるけれど。
やっぱり家には、私一人。
「どういう、こと……」
リビングで一人、立ち尽くした。《鳩が豆鉄砲を喰らったよう》、まさにその通り。
そうこうしている間にも、針はかちかちとせわしなく走る。
冷や汗が一筋、背中をつたい。
「はい、朝ご飯抜き決定です……」
行く途中でコンビニに寄ろう。明らかに余計な出費だけど、仕方ない。
どうせ家族でどこかへ出掛けているんだろう。
遠出が好きな一家だ。弟もまだ二歳だし、出掛けに行けないということはない。
母は専業主婦、父は数学者。休みなんて、どうせ腐るほどあるんだ。
私一人だけが、苦労して疲れているんだ。このセカイはそういうふうに出来ている、断言できる。
ふと時計を確認すると、もう集合時間ぎりぎりだった。
早く、行かないと。
起きた時に感じた違和感は、まだあるけれど。
いちいち気にしていたらきりがない。
「――行ってきます!」
返ってくるはずのない反響をほんのりと期待しつつ、しかしやっぱり声はしなくて。
鞄を持ち上げ靴をつっかけて、私を玄関のドアを大きく開けた。
ふと。
「……んー」
大事なことを、忘れている気がする。もしかしたら《これ》が、違和感の正体なのかもしれない。
何か、大事な――
外は、異様な静寂に包まれていた。
本来あるはずの、騒がしい車の走行音や小学生たちの賑わいが、すっかり消えている。
少し錆びついた音をたてて、赤い自転車を車庫から出した。その音が、やけに空へと響く。
鞄を放りこむと危なっかしげにがたがたと揺れる自転車の籠は、どこか私を不安にさせた。
「やっぱり、なんか、変」
《怪異》と呼ぶにふさわしい、それは現象で。
みるみる、セカイが変わってゆく。
『私』というたった一人のちっぽけな生命が――不安定で、ふとした衝動で消えてしまうような弱小が、そびえたつビルに囲まれている。そう考えると、恐怖すら感じた。
とりあえず、学校まで走ろう。
体育会系? 大目に見てやっても文化系ではない私は、とにかく奔走することにした。
あてのない不気味な街に、呑まれないように。
「はぁ、はぁ……っ」
久しぶりに、全力というものを発揮した気がする。体中をけたたましく血液が巡っているのがわかる。
校門に着いても、静寂は相変わらず。校門脇に植えられた柳が、震えるように風を受けてさわさわと囁くだけ。普通ならジャージ姿が息を切らして走り抜けているのが日常なのに。
周りの民家も、おそらく人っ子一人いなくなっているだろう。そう感じる程度には、静かだ。
いつもなら喧しい吠え方をする犬を引き連れて歩く髪の薄いお爺さんも、よく外に出て庭いじりなんかしているおばさんも、今はいない。
どうしてなのか、分からない。
もしかしたらこれは、ある種の天罰なのかもしれない。きっとそうだ。
たとえば、妹。たとえば、後輩。
最近、テスト勉強と大会に向けての練習で肉体的にも精神的にも、かなり疲れていたので、周りとのコミュニケーションがほとんどとれていなかったような気もする。
とすれば、これは神様からの警告なのだ。
《お前は周りの人たちのおかげでこうして成長できているんだ。周りの人間が消えるとこうなるのだよ》、と。
メルヘン? 知るか。
私は本気で、このことを悔やんだのだ。天罰だと、信じて疑おうとしなかった。
他に、この現象をあやふやに理解する――そんな頓狂な芸当が出来るはずもなかった、というのがもっともな理由ではあるけれど。
『神様』なんていない。無宗教、だし。
けれどこの時の私はなんというか、すごく申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだということで、自家撞着であってもどうかご容赦願いたい。
指定の、自転車置き場に着いた。
持ち主の消えた自転車たちが、ゆったりと鎮座している。
はあ、と一つ溜息をついて、がしゃんと自転車を置く。鍵を二つ掛け、意味もなくサドルをぺしぺしと叩いた。
さらば、マイ・ディアー。
私の帰りを、そこで待ってておくれ。
靴箱でのろのろと外靴をバスケットシューズに履きかえ、さっさと体育館に向かうことにする。
《行動が矛盾する女》。中学校の時に同じクラスの男子に付けられたレッテル。そんなに悪い気はしない。
朝の爽やかさというか、そんなような雰囲気が、校舎全体を包んでいた。
ふだん改めて感じようともしないその空気に、なんというか私は……圧倒されてしまった。
なんと言えばいいんだろう。上手く言葉にできない。
神聖さ、荘厳、清らか。
どれも当たっているようで、しかし外れているような。
うっすらと霞みがかった、それは幻影と呼んでいい光景だった。
ふと、教科書のあるページが鮮明に蘇る。
春は曙 やうやう白く なりゆく山ぎわ
そう、まさにそうだ。ぴったり。
紫色した靄が、私を包むように。
「……っと」
こうしちゃいられない。どうせ先輩も《消えて》はいるんだろうけれど、もしかしたらいるかもしれない。あの人なら、こんな異常事態を撥ねのけるくらい、簡単なんじゃないかな。
と。
なんだか、一瞬だけ小学校時代のプールの授業を思い出した。
水に、顔を浸ける。すべての音が、まるでフィルターを掛けたかのようにぼやける。それから少し不安になって、ざばっと水面から顔を出す。一気に、音が戻ってくる。
そんな感覚に、陥った。
幻想的な朝と、現実味のない周囲。
このギャップは、思いのほか私を苦しめていたようだった。
ぱんぱん、と手を叩いてみる。音は廊下の先まで木霊して、駆けていった。
大丈夫、私はここにいる。
私だけが、此処にいる。
私は、体育館へと急いだ。
着いてみると、予想通りというか人はそこにもいなかった。ボール――バスケットボールが二つ、ころころと転がっていただけ。
「……?」
太陽の光が燦々と、質素な部屋に降りそそいでいる。
まだ眠たい目をくしくしとこすって、体温でぬるく温まったベッドを離れる。素足にひやりとした床の冷たさを感じつつ、軽く体を伸ばした。外で雀たちがさえずっている。
壁かけ時計は、ちょうど七時を指していて。私を焦らせるには十分だった。
「やばっ……遅刻!」
今日は朝練に、憧れの先輩が来る日。遅れて行っては、後輩たちに示しがつかない。
大慌てでパジャマを脱ぎ捨てて、学校指定のジャージに着がえる。《通常登校以外――朝の部活練習などがある生徒には、特例として……『ジャージ登校』を許可するっ!》。今回の生徒会長が新しく作った校則が私を毎朝助けてくれているのは、もちろん言うまでもない。生徒会長、愛してる。
ちなみに私も生徒会長も女だけれど、あいにく私にそんな趣味はない。
リビングに降りると、朝食がなかった。それどころか、人の気配なんてしなくて。
気温がすっ、と下がった気がした。
「おかーさん、どこー?」
ふいと、呼んでみる。当然というか、返事はない。
少々の不安を憶えながら、和室、トイレ、庭……と巡ってみるけれど。
やっぱり家には、私一人。
「どういう、こと……」
リビングで一人、立ち尽くした。《鳩が豆鉄砲を喰らったよう》、まさにその通り。
そうこうしている間にも、針はかちかちとせわしなく走る。
冷や汗が一筋、背中をつたい。
「はい、朝ご飯抜き決定です……」
行く途中でコンビニに寄ろう。明らかに余計な出費だけど、仕方ない。
どうせ家族でどこかへ出掛けているんだろう。
遠出が好きな一家だ。弟もまだ二歳だし、出掛けに行けないということはない。
母は専業主婦、父は数学者。休みなんて、どうせ腐るほどあるんだ。
私一人だけが、苦労して疲れているんだ。このセカイはそういうふうに出来ている、断言できる。
ふと時計を確認すると、もう集合時間ぎりぎりだった。
早く、行かないと。
起きた時に感じた違和感は、まだあるけれど。
いちいち気にしていたらきりがない。
「――行ってきます!」
返ってくるはずのない反響をほんのりと期待しつつ、しかしやっぱり声はしなくて。
鞄を持ち上げ靴をつっかけて、私を玄関のドアを大きく開けた。
ふと。
「……んー」
大事なことを、忘れている気がする。もしかしたら《これ》が、違和感の正体なのかもしれない。
何か、大事な――
外は、異様な静寂に包まれていた。
本来あるはずの、騒がしい車の走行音や小学生たちの賑わいが、すっかり消えている。
少し錆びついた音をたてて、赤い自転車を車庫から出した。その音が、やけに空へと響く。
鞄を放りこむと危なっかしげにがたがたと揺れる自転車の籠は、どこか私を不安にさせた。
「やっぱり、なんか、変」
《怪異》と呼ぶにふさわしい、それは現象で。
みるみる、セカイが変わってゆく。
『私』というたった一人のちっぽけな生命が――不安定で、ふとした衝動で消えてしまうような弱小が、そびえたつビルに囲まれている。そう考えると、恐怖すら感じた。
とりあえず、学校まで走ろう。
体育会系? 大目に見てやっても文化系ではない私は、とにかく奔走することにした。
あてのない不気味な街に、呑まれないように。
「はぁ、はぁ……っ」
久しぶりに、全力というものを発揮した気がする。体中をけたたましく血液が巡っているのがわかる。
校門に着いても、静寂は相変わらず。校門脇に植えられた柳が、震えるように風を受けてさわさわと囁くだけ。普通ならジャージ姿が息を切らして走り抜けているのが日常なのに。
周りの民家も、おそらく人っ子一人いなくなっているだろう。そう感じる程度には、静かだ。
いつもなら喧しい吠え方をする犬を引き連れて歩く髪の薄いお爺さんも、よく外に出て庭いじりなんかしているおばさんも、今はいない。
どうしてなのか、分からない。
もしかしたらこれは、ある種の天罰なのかもしれない。きっとそうだ。
たとえば、妹。たとえば、後輩。
最近、テスト勉強と大会に向けての練習で肉体的にも精神的にも、かなり疲れていたので、周りとのコミュニケーションがほとんどとれていなかったような気もする。
とすれば、これは神様からの警告なのだ。
《お前は周りの人たちのおかげでこうして成長できているんだ。周りの人間が消えるとこうなるのだよ》、と。
メルヘン? 知るか。
私は本気で、このことを悔やんだのだ。天罰だと、信じて疑おうとしなかった。
他に、この現象をあやふやに理解する――そんな頓狂な芸当が出来るはずもなかった、というのがもっともな理由ではあるけれど。
『神様』なんていない。無宗教、だし。
けれどこの時の私はなんというか、すごく申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだということで、自家撞着であってもどうかご容赦願いたい。
指定の、自転車置き場に着いた。
持ち主の消えた自転車たちが、ゆったりと鎮座している。
はあ、と一つ溜息をついて、がしゃんと自転車を置く。鍵を二つ掛け、意味もなくサドルをぺしぺしと叩いた。
さらば、マイ・ディアー。
私の帰りを、そこで待ってておくれ。
靴箱でのろのろと外靴をバスケットシューズに履きかえ、さっさと体育館に向かうことにする。
《行動が矛盾する女》。中学校の時に同じクラスの男子に付けられたレッテル。そんなに悪い気はしない。
朝の爽やかさというか、そんなような雰囲気が、校舎全体を包んでいた。
ふだん改めて感じようともしないその空気に、なんというか私は……圧倒されてしまった。
なんと言えばいいんだろう。上手く言葉にできない。
神聖さ、荘厳、清らか。
どれも当たっているようで、しかし外れているような。
うっすらと霞みがかった、それは幻影と呼んでいい光景だった。
ふと、教科書のあるページが鮮明に蘇る。
春は曙 やうやう白く なりゆく山ぎわ
そう、まさにそうだ。ぴったり。
紫色した靄が、私を包むように。
「……っと」
こうしちゃいられない。どうせ先輩も《消えて》はいるんだろうけれど、もしかしたらいるかもしれない。あの人なら、こんな異常事態を撥ねのけるくらい、簡単なんじゃないかな。
と。
なんだか、一瞬だけ小学校時代のプールの授業を思い出した。
水に、顔を浸ける。すべての音が、まるでフィルターを掛けたかのようにぼやける。それから少し不安になって、ざばっと水面から顔を出す。一気に、音が戻ってくる。
そんな感覚に、陥った。
幻想的な朝と、現実味のない周囲。
このギャップは、思いのほか私を苦しめていたようだった。
ぱんぱん、と手を叩いてみる。音は廊下の先まで木霊して、駆けていった。
大丈夫、私はここにいる。
私だけが、此処にいる。
私は、体育館へと急いだ。
着いてみると、予想通りというか人はそこにもいなかった。ボール――バスケットボールが二つ、ころころと転がっていただけ。
作品名:トウキョウモノフォビア 作家名:ダメイジェン