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G線上のアリア

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G線上のアリア


 夜の闇の中を、それは這いずり回る。それは我々の見ぬスキに這いずり回るのだ。
 時折、深淵に潜むそれらの気配を我々は感じることができる。
 ――我々とそれは共存することができない。生きる世界が違うのもそうだが、それらの存在は我々にとって毒なのである。
 故に、我々はそれらを排除しなければならない。毒、トリモチ、界面活性剤、そしてスリッパ――。あらゆる手を使ってそれらを排除しよう。
「いやいやいや。私たちはただ住まわせてもらえるだけで良いのですが」
「それが問題だって言ってんだよっ!」
 それに――、アリアに対しては俺は叫ぶ。
 目の前の娘、アリアはアレである。アレというのはアレであり、アレ以外の何物でもない。名前を言ってはいけないアレなのである。
「家主さんには迷惑は掛けませんよぅ。ご飯だってそんなに食べませんし」
「それで多飯喰らいなら全面戦争も辞さないな」
 ――って遊んでる暇はなさそうだ。仕事の時間だ。
「とにかく、何も触るんじゃないぞ。大人しく、とにかく大人しくしてるんだ」
 そう、俺はアリアに言いつけ、仕事に出かける。
 ――さて、俺の仕事中のことなんて、誰も興味がないと思うので、一つアリアと初めて出会った時の話をしよう。
 アリアは唐突に現れた。アレなのだから当然だ。布石も伏線も後付けもなく、我が六畳一間のアパートの真ん中に座っていたのだ。
 そしてアリアは三つ指を揃えて言うのだ。
「こんにちは、私はアリアと申します」
 ――と。
 チョコレート色のゴシック調ワンピースに、ぴょんと跳ねた二本の長い癖っ毛。足が速く、親は自分と多くの兄弟を一度に産んで死んだ。好きなモノは甘いモノ。角砂糖とか氷砂糖とか砂糖水とか暗い所が好きで、石鹸と明るい場所が苦手なのだ。
 風呂に入ると死ぬ。息ができなくなって死ぬ。界面活性剤を頭からかぶっても同様。猫が怖くて、アシダカグモは最悪の天敵である。
 アレである。その設定は紛うことなきアレである。アレでないとしたら一体なんなのだろうか。界面活性剤以降の件でどうあがいても絶望である。人並みの大きさのアレとか絶望の体現である。絶望が服を着て歩いていると言っても過言ではない。
 毎日目覚めると、アリアは枕元に居るのだ。その度に悲鳴を上げそうになる。昨夜なんて、水を飲もうと布団を出たらあいつを踏んでしまったのだ、素足で。
「仕事も憂鬱だけど、家に帰るのも憂鬱だ……」
 せめて楽しいことを考えよう。そうだ、今週末は風呂の掃除をしよう。風呂とトイレと、あとシンクも磨こう。ぴかぴかになった浴槽と便座とシンクを思う。
 今日一日そのことばかり考えていた。

 家に帰ると、アリアはじぃっと空を見上げていた。
「あっ! おかえりなさいっ!」
「こっちくんなっ!」
 顔面に向かって跳んでくるのはやめてほしい。
「家主さんのいけずぅ。メス一人養える程度の甲斐性を見せてくださいよぅ」
「お前以外にも何人俺は養っているんだろうな……」
 一匹いたら二十匹はいると思え、だっけか。
「まだ私一人ですよ。私、家主さんのバッグの中に紛れ込んでこの家に入り込んだので」
「知りたくなかった新事実ぅっ!」
 嫌すぎる。アレの入ったボディバッグを抱えていたなんて信じたくない。
 いや、前向きに。この家にはアリア以外にアレはいないと分かったのだから、精神衛生的にはマシだ。
「そんなことよりご飯食べましょうよご飯。私甘いモノがいいなぁ~」
「よーしパパホウ酸団子作っちゃうぞー」
「家主さん、そんなんだから私、夜中冷蔵庫を開けてつまみ食いしちゃうんですよ」
「てめぇ冷蔵庫の中身にまで手をつけてやがったのかっ!」
 道理で腹の調子が悪いと思った。
「ほら、こういうのをなんていうか。そうそう、『なあに、かえって免疫力がつく』」
「うっせぇ俺の体調不良の原因は八割方おめぇのせいなんだよっ! 疫病神かてめぇっ!」
 トイレから出られない日々が続きます。実際疫病神とそんなに変わらない。
「それに私はホウ酸団子よりスリッパの方が好みなのです」
「死に方に好みまで付けてきちゃったか」
「だってホウ酸団子だと、それ食べて死んじゃった子を食べられないじゃないですか」
「そーいうところが人間と相容れない絶望的なところだと思うよ」
「失礼ですね。これこそ日本文化のMOTTAINAIですよ」
「日本人はMOTTAINAIからってカニバらないしスカトらないからねっ!」
 それこそ失礼な話である。
「まあ、個人的に一番嫌な死に方は窒息でしょうか」
「良し界面活性剤を持ってきてやるからちょっと待ってろ」
 石鹸で死ぬ辺りも何か嫌なモノがあると思う。
「とにかく、頼むから早くどっかに行ってくれよ。マジで」
「――大丈夫ですよ」
 そうアリアは言って、空を見上げた。

作品名:G線上のアリア 作家名:最中の中