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上海の夜

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「ごめんなさい。あなたとは結婚できない」
「そうか…」
 私達は朱色のテーブルで向かい合って沈黙しました。

「華子の為に日本語もかなり勉強したのに。バイオリンの腕も磨いた。父の会社を継ぐことになった。もし僕と華子が結婚できたら、裕福な暮らしを約束する。決して外見だけで君を選んだんじゃない。素直に君を好きになった。君には何と言っていいか、何とも言えない魅力がある。この一年ずっと君の事を考え続けていた。心から惹かれている。僕にはもうチャンスはないのか華子」
 
私は彼の恋の原動力が盲目からきているものと感じました。
「あなた本気なのね」
「もちろん」
 私達は上海の雑居の中を彼の家のハイヤーではなくタクシーを拾ったのです。彼は、
「僕はフラれてもフラれても待ってる」
 その彼の言葉に何らかの返事をするように私はその晩彼に付き合いました。
 ホテルに行って私達は抱き合い、一線を越えてしまいました。
 
 幸せの予感が見えそうで、実感できなくて、それは朝の浅い眠りのような実体のない世界にも似ているのです。次の朝私達はホテルで起床し、別れることになりました。

「僕の事考えてくれるかな?」
 そう言ったのですが、私はやはり、
「ごめんなさい。わたしはあなたと付き合えないわ。私はあなたの様な人と付き合えない類の人間なの」
 そう返しました。

 また日本に帰り、私はもうしばらく上海に行くことはありませんでした。
 その代りバイオリンのアジアの大会で優勝することができました。
 優勝と同時に父からある知らせを聞きました。上海のヤー・ツァンが結婚したのです。相手は同じ上海のお嬢様だそうです。
悲しくなることはありませんでした。失望感に生まれながら慣れているのです。

 その一年後ヤー・ツァンは何か訴えるかの様に私の出場したアジアのバイオリンの大会に出場し、優勝を勝ち取ったのです。そうして彼から手紙をもらいました。
『君とは結ばれなかったが一度でいい。あなたと話がしたい。このためにバイオリンの大会で優勝した。お願いだ。たった一度でいいから会ってくれ』

 私は上海に向かいました。
 私と彼は上海の新天地のイングリッシュパブでコーヒーを飲んだのです。
「結婚おめでとう」
「ありがとう…華子も去年のバイオリン優勝おめでとう」
「ありがとう。あなたもね」
 彼はニコッと笑った。
 新天地ではイギリス人と中国人が雑居ビルの様に無秩序に、粗野なデザインの様な活気を呈していました。
「華子。俺は結婚するぎりぎりまで君の事を考えていた」
 中国人が黒テーブルで琥珀ビールを飲みながら快活に笑っている。
「君が日本人で、僕が中国人だから、それだけで僕達は結ばれなかったのか」
 私は彼の言葉に対し、沈黙を守り続けました。
「でも本気でたまに分からなくなる時があるんだ。僕はどうして君からYESをもらえなかったのだろう。僕も上海では少しは名の知れた人間だ。そんなにひけはとってないと思ったが」
 店の中ではグランドピアノの前で調律師と思われる人が作業をしていました。
「そうね…」
 イギリス人と中国人が英語で話し合い何やら上海ドルの話をしている様です。後々中国も上場し、世界に進出し、彼も世界の大舞台に出ることになるでしょう。

 叶わなかった恋に終止符を打つ様に彼は、
「君との出会いの意味を考えた。でもいくら考えても答えは出ないんだ」
 周りの快活な客を見て、私は本来の生き方でない、運命的な、避けることのできない
「皆と違った人間」としての自分を肌で感じるのです。
 私達はそこで別れました。もう会う事のない、消えた歴史上の人物の様に、跡の可能性のない別れでした。

 私は上海の街を一人で、ぶらぶら歩き夜になるとホテルに置いておいたバイオリンを持ってまた外に出たのです。
 一人の男が大道芸をやっていて終わったようでした。
 その男が立ち去った後、私は一人バイオリンを片手に、恋のアランフェスを弾きました。

 人がポツンポツンと寄ってきました。

狂詩曲「スペイン」を弾きました。アダージョを弾きました。運命交響曲を弾きました。メヌエットを弾きました。愛の挨拶を弾きました。オネスティーを弾きました。

多くの人が集まりました。

交響曲「悲愴」を弾きました。レクイエムを弾きました。美しく青きドナウを弾きました。
奇想曲第24番を弾きました。

 魔的な魅惑を見せるこの街で私を身を投げるように、汗まみれになりながらずっと弾き続けました。

“悲の果ての華”

―――上海の夜は終わりを知らない―――

作品名:上海の夜 作家名:松橋健一