ブリュンヒルデの自己犠牲
しかし担当の医師が徐々に事実を明らかにするに連れ、また押収された薬物が警察の調査と共に公開されるに連れ、スポーツ界のみならず医学界もが震撼した。
なぜなら、その選手が摂取した薬品は肉体のパフォーマンスを向上させるが、薬品の投与による副作用は一切見られないものだったからだ。
肉体を強化する薬品自体は珍しくない。ツール・ド・フランスに限らずオリンピック、またメジャーリーグ等では試合で勝つ為、違法に薬物を摂取している選手は少なくなかった。しかし過去に不審な死を遂げた女性ランナーなど、その副作用による死の事例も多数あったことからドーピングの危険性は誰もが認識するものであった。
だが逮捕された医師はドーピングによる傷害・殺人罪を回避するため、その薬品が成長ホルモンを改良した成長促進剤で、人体に無害であること。副作用がない故これまでのドーピングチェックをくぐり抜けられていたこと。またその薬品の成分、制限摂取量、トレーニング方法等、従来まで秘匿されてきたノウハウが公開され世界中が騒然となった。
副作用のない人体強化薬――。それはもはやドーピングではない。人間の体力を安全に向上させることは医療の劇的な進歩に他ならず、世界中の医薬品メーカーがそのノウハウを利用し副作用のない様々な効能を持つ薬品を開発、販売し世界中に広まるのにさして時間はかからなかった。
特にその成長促進剤が肉体の成長期にある少年少女に特に大きな効果を発揮することが分かると、若年層への投与も一気に拡大。その結果教育プログラムは大幅に改定され、この成長促進剤の投与と体力を向上させる運動方法を教える学課、『保健体育』の教育内容が大幅に強化されるに到った。
ネガティブなイメージ持つ“ドーピング”という言葉は、フランス語で同じ意味を持つ『ドパージュ』に置き換えられ、教育熱心な親達から積極的に『ドパージュ』を受けた子供達が次々に成長、成人していった。
その結果、デジタル・デバイドと呼ばれるIT技術の世代間格差に加え、成長促進剤を投与された世代との体力間格差『フィジカル・デバイド』と呼ばれる格差が発生。
これらの若者達が世界を変える――。そんな時代へと変化しつつあった。
―― そして202X年、少年・少女達の新しい物語が始まる ――。
* * *
『神眼の明日香』
パーッ! パッパ――! パッパ――!
車から怒りの込められたクラクションが一台の自転車に向けて鳴らされた。
自転車が邪魔で車がクラクションを鳴らすなど誰もが見る光景だろう。
だが今回はそうではなかった。むしろ遅いのは車の方で、マウンテンバイクが車を追い越し前にしゃしゃり出たため、ドライバーが盛大にクラクションを鳴らしたのだ。車が決して遅い訳ではない。車はゆうに時速50キロを超えている!
しかもそのMTBを駆る少年はローラーブレードを履いた女の子を引っ張りながら、この車を追い抜いて行ったのだ。
「そんな馬鹿な!」 思わずそのドライバーは驚きの声を上げた!
そうか……、あれがドパージュで身体を強化したガキ共か……。
しかし待てよ――。成長促進剤であるドパージュを受けた子供なんて珍しくもない。しかしこれ程までのパワーを見せる子供など今まで見た事もない。彼が知る子供達とは明らかに格段の差がある。
「こんな子供達が本当にいたのか……」 彼はそんな驚きを口にしながら、ナビの地図を見てあることに気が付いた。
その近辺にある巨大施設にして、日本最高のドパージュ教育機関がある場所を――。
「そうか……、あいつらあの防衛大学校の生徒か。あの連中なら確かに……」
「おおーー、火鷹クーン ! ちょっと飛ばし過ぎだよおーー。 危ないよおーー。」
「大丈夫だって! MTBなら任せろ! いつもダウンヒルでもっと出してるんだ! これ位のスピードなら問題ねーーって!」
「わおお―― 、本当? 信じちゃうよお――」
ローラーブレードを履いた女の子はMTBに引っ張られ、文句を言いつつも嬉しそうな声で叫んでいた。
それにしても50キロを超えるスピード走る自転車も信じられないが、それに臆することもない彼女も相当なものだ。MTBに乗る男子生徒のベルトを掴み前傾姿勢を撮りつつ脚を大きく開き、お尻をキュンと後ろに突き出して、左右にそして前後に加速するMTBの動きに合わせ高速で疾走している。見事なバランス感覚だ。
制服らしきミニスカートがバタバタと強風に煽られはためくが、このスピードではローアングルで見ることなど叶わぬ願いで、女の子も下着が顕わになることを気にする様子もない。
「火鷹クーン! じゃあ、もっと飛ばしてよおぉ! やっぱりチャリは速くて気持ちイイーーッ!」
おいおい……、なんだかんだ言ってこの娘もスピードジャンキーってことかよ? まあ、この『モーターブレード』に乗っている時から分かってたけどな。でも時速60キロでもビビらないなんて、やっぱこの学院に入るだけのことはあるぜ!
「よおーーし! それじゃもっとスピードを上げるぜ! しっかり掴まってろよ――!」
ガチャン! 俺はMTBのギアを一段上げた。今更ながら危険なので一気に加速することはしないが、徐々にスピードを上げ、それを維持出来るペースでしっかりと走り続けた。
俺も彼女『秋月春菜』もこの学校に入るため東京へ越してきたばかりだし、今日は早朝トレーニングを兼ねた散歩のつもりだったけど、十分汗もかいたしそろそろ学校に行かねえとな。
「おーい、秋月! 学校が見えてきたぜーー!」
「おおぉぉ! 見える、見えるよおぉぉ! でも大きい建物ばっかりだねーー? 生徒も沢山いるしーー?」
「そりゃあ俺達が行くのは日本一の学校だぜ? なんたって防衛大付属なんだし!」
「あはははっ、そうだよねーー? わたし達、ほんとラッキー! こんな凄い学校に入れるんだもーーん!」
確かに春菜の言う通り、俺らってツイてるよなあ……。防衛大学付属高校、こんなスゲえ学校に入れたんだから……。
そう、成長促進剤を投与する『ドパージュ』が一般的になると、保健体育のカリキュラムだけでなく大学の組織も大きく変わることになった。ドパージュの効果は若い頃から始めるほど効果が高いもんだから、成人に近い大学生に今更ドパージュを投与しても効果はかなり低い。ところが国の大学は最高の研究機関でもあるのに、そこで開発したドパージュをその生徒に受けさせられないんじゃ全く話にならない。じゃあどうしたかって言うと、これらの国立大学は若く優秀な生徒を育成する目的で、付属高校、付属中学を設立し学生を若い内から幅広く教育するよう方針を変えた訳だ。
そんなこんなで俺達の間では、これらの国立大学の付属高校、付属中学に入ることは一種のステイタスになっている。
作品名:ブリュンヒルデの自己犠牲 作家名:ツクイ