憎きアショーカ王
(105) マガダの喜見--アショーカ王は碑文において天愛喜見王([マガダ]Devanampriya priyadassi raja)ないし天愛と名乗るが、カルカッタ・バイラート碑文のみ、尊称である"天愛(もろもろの神々に愛せられるものの意)"を除き、「マガダの喜見」と名乗る。これはこの法勅が仏教サンガへ向けた私的なものだからである。してみれば彼が発見したこの碑文は、カルカッタ・バイラート碑文と同種のものだろう。
(106) 生まれによって……見解によってバラモンとなるのではない--「生まれによってバラモンとなるのではない」はスッタニパータ650などにある詩句。「見解によってバラモンとなるのではない」は同文はわからないが、アッタカヴァッガのいくつかの詩句の主意であるように思う。
(107) 無明--[パーリ]Avijja [サンスクリット]Avidya. 知らないこと。人間がそれと知ることなく意識し識別し認識するもの、またそのような作用。例えば「これは私である」「彼はこのような人物である」「私は彼が気に入らない」といった思考とこの思考をもたらす作用がそれ。苦が苦となる道程を述べる十二支縁起の第一とされ、無明こそが苦の原因とされる。人間が意識し識別するものは自然の姿そのものではなく、無明によって覆われたものであるので、意識のもろもろの事象を自然のままに正しく観察し、これは執着である、これは渇愛である、これは貪欲である、というように知って無明を滅すると、涅槃(ニッバーナ。苦を滅した"私")が得られるという。だから無明とは自然の実相を曇らせる人間の様々な欲望(執着、渇愛、貪欲など)とその作用の総称である。アッタカヴァッガなどの古い詩句にはこの語はあまり出ないから、ある時期に初めから仏教用語として用いられた語かもしれない。
(108) 執着--[パーリ]Visattika. アッタカヴァッガ第三詩(スッタニパータ785)「もろもろの事柄に対する固執はこれこれのものであると確かに知って、自己の見解に対する執着を超えることは、容易ではない。ゆえに人はそれらの偏執の住居のうちにあって、ものごとを退け、また執る」とあるように、これはこうである、これはこうではない、とこだわること。自尊心や渇愛などの欲望に基づき自らこだわることで自ら苦しむさま。
(109) 識別作用--[パーリ]Vinnana. これはこれである、と識別認識する意識の作用。例えばある事象を、「彼は私を侮辱した」と識別認識するときの作用。十二支縁起の第三とされるが、スッタニパータ734には、「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起こるのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起することはない」とある。
(110) もろもろの事象は……なすべきことを実現せよ--マハーパリニッバーナスッターンタ6-23.7。こればかりはサンガが忘却したり潤色したとは思われない。
(111) 泥沼にいるものは……救うことはできない--ダンマパダ158「まず自己を正しく整え、ついで他人を教えよ」327「自己を難所から救い出せ。泥沼に落ち込んだ象のように」などがこれにあたるだろうか。
(112) ビックニー--[パーリ]Bhikkhuni [漢音]比丘尼。女性の出家者。スリランカやタイには今日ビックニーのサンガがなく、これは弾圧などによってアショーカ王時代からの伝統が途絶えたためという。大乗仏教ではこうした話は聞かないが、これは大乗仏教がそもそも在家から始まったものであることを示唆するかもしれない。
(113) 法勅--[マガダ]Dhamma-lipi. lipiは古代ペルシア語に由来し、文字の意という。Dhamma(法)については註84参照。
(114) 灌頂二十八年--灌頂とはインドにおいて王が即位する際、額に水を注ぐ儀礼のこと。アショーカ王の灌頂は摩崖法勅第十三章に刻された五人のギリシア人の王の名を拠り所に、紀元前268年頃とほぼ確定している。碑文のうち最も遅い灌頂年が刻されているのはデリー・トープラーとカンダハールの石柱碑文第七章で、二十七年であるから、この碑文は新発見のアショーカ王最晩年のものということになる。
(115) 出家--[パーリ/サンスクリット]Pravrajya. 家を出て修行僧になることを指すわけだが、本来は家の中に住まないことを指したらしい(スッタニパータ274「家から出て家なきにいたる」)。ここで彼が初めに考えたように、一切を所有せず森などに住むことが伝統的な修行者の姿であり、そうした人々を森住者([サンスクリット]Vanaprastha)と呼んだ。
(116) 輪を転ずる者--古来インドでは輪([サンスクリット]Chakra)は宇宙の表象であり、人は行いによってこの宇宙という輪を転ずるとされた。善い行いであれば輪はよく回るが、悪い行いは、人々の善い行いによって回る輪の勢いを弱めてしまい、悪い行いばかりが行われれば、宇宙は崩壊してしまう。宇宙は人々の善い行いによって存在し運動することができると考えられた。アショーカ王の石柱頭にある法輪は、この概念を表している。アショーカ王は個人としてはインドに記憶されなかったが、法の行いによって宇宙を転ずる転輪聖王の神話として伝えられた。
作品名:憎きアショーカ王 作家名:RamaneyyaAsu