Bhikkhugatika
孤独は楽しい
孤独が苦しいのはなぜか。欲するものが手に入らないからである。何を欲するのか。情人と称賛とである。なぜ情人と称賛とを欲するのか。
情人はどうだろう。なぜ情人を欲するのか。その体で憩いたいからである。なぜその体で憩いたいのか。生き延びたいからである。なぜ生き延びたいのか。俺がここにいるからである。なぜ俺がここにいるのか。俺が俺はここにいると見なしたからである。
ところで、情人は、欲することで手に入るのか。気に入った人を見つけて、「俺は君が欲しい。君の体で憩わせてくれ」と言ってみよう。聞き入れられることもあるだろう。しかしそれはただその人もまた同じ肉欲を叶えようとしたというだけである。これではどちらかが自分の欲求に適合しないものを相手に見出すや否や、テニスの試合が始まるようにして諍いが勃発し、その苦しみが、孤独の苦しみに上乗せされるだけである。聞き入れられなければどうだろう。聞き入れられるはずもない。「君が欲しい」と言われたところで、その人の与り知るところではないからである。この上なお情人を欲すると、どうなるだろう。暴力によってその人を制圧する他ない。暴力によってその人を制圧すると、どうなるだろう。その人の苦しみが、自分の孤独の苦しみに上乗せされるだけである。さらにその人が他の人に自分がしたことをするのを見て、さらに苦しくなり、最後には、自分が他人に自分がしたことをされるのだ。
称賛はどうだろう。なぜ称賛を欲するのか。自分が生きていることを確固としたものにしたいからである。なぜ自分が生きていることを確固としたものにしたいのか。生き延びたいからである。なぜ生き延びたいのか。俺がここにいるからである。なぜ俺がここにいるのか。俺が俺はここにいると見なしたからである。
ところで、称賛は、欲することで手に入るのか。人々に向かって、自分の見解を開陳して、「さあ、称賛してくれ」と言ってみよう。「優れている」「素晴らしい」と言う人もいるかもしれない。しかしそれはその人が自ら論理を辿ってその論理が優れていると言うだけで、それを言った人が優れていると言うのではないのである。これでは孤独の苦しみは依然として一向に減るものではない。それを言った人が優れていると言う人もいるかもしれない。しかしその人は自らの検査によってではなく他人の検査によって真理を知ろうとする迂闊者なのだから、その称賛を受けたところでそれが何になるだろう。やはり孤独の苦しみはいささかも減るものではない。
称賛されなければどうだろう。「馬鹿馬鹿しい」「意味がわからない」などと言われたら?その論理が馬鹿馬鹿しい、と言う人もいれば、それを言う者が馬鹿馬鹿しい、と言う人もいるだろう。どちらにしても、この上なお称賛を欲するなら、彼らは馬鹿だ、とか、こんな阿呆どもは消えるがいい、などという怒りが、自らへの暴力が、孤独の苦しみに苦しみとして上乗せされ、その苦しみから逃れようと、怒りに任せてそれを言えば、それを言われた人の苦しみと、その人が他の人に同じことをするのを見る苦しみと、最後には自分が他の人に自分がしたことをされる苦しみが、孤独の苦しみに上乗せされるのだ。
では、情人がいなければどうだろう。それを欲しているけれども、それは本当に必要なのか。情人を伴わず、独り歩むのはどうだろう。
孤独なら、誰かに煩わされることがない。誰にも文句を言われることなく、自分が決めたことを自分が決めたように行為することができる。俺がここにいる、俺は生き延びたい、と感じたとしても、誰かを煩わすこともない。
孤独は楽しい。
称賛を受けることがなかったらどうだろう。それを欲しているけれども、それは本当に必要なのか。誰かの称賛を受けることなく、独り歩むのはどうだろう。
孤独なら、誰かに煩わされることがない。称賛されようと、非難されまいと、心が千々に乱れることなく、自分で自分を評価できる。俺がここにいる、俺は生き延びたい、と感じたとしても、誰かを煩わすこともない。
孤独は楽しい。
孤独なら、何ができるだろう。俺がここにいる、俺は生き延びたい、と感じたとき、どういうことができるだろう。
孤独なら、誰かに煩わされることなく、自分と自然を観察できる。俺がここにいる、俺は生き延びたい、と感じたとして、自分と自然を観察した結果から、それが実際にはどういうものかが理解できる。生き延びたいと欲しても、無駄である。死なない者に生命は無い。鉄が死なないように。生命が生き延びたいと訴え続けるのは、ただ彼にはこうする以外にないというだけである。彼は、そのためのどんな方法も知らぬ。ただ訴えるだけなのだ。そのための方法を見つけ、そのための行為ができるのは、ただ俺だけである。では、それが生命に突き上げられて生じたものであれ、俺がここにいて、生き延びたいと感じるなら、どうすればいいだろう。俺が生き続けることはできないとして、生き続けるものはどこにあるだろう。俺は、生き続けるものを独りで見つけ、独りでそれを作り、人々の間ではそれを行おう。
独り善を見つけ、独りそれを作り、人々の間でそれを行うのは楽しい。善が自分と人々との苦しみを滅ぼし、俺が滅んでなお人々の間を渡り歩いて生き続けるからである。孤独であればそれができる。
独り徳を見つけ、独りそれを作り、人々の間でそれを行うのは楽しい。徳が自分と人々との怒りを滅ぼし、俺が滅んでなお人々の間を渡り歩いて生き続けるからである。孤独であればそれができる。
独り愛を見つけ、独りそれを作り、人々の間でそれを行うのは楽しい。愛が自分と人々との悲しみを滅ぼし、俺が滅んでなお人々の間を渡り歩いて生き続けるからである。孤独であればそれができる。
孤独は楽しい。
作品名:Bhikkhugatika 作家名:RamaneyyaAsu