食べ物による小話 #5「チョコレート」
「チョコレートは女の敵よ」
隣の女がつぶやいた。女と言うものは敵が多いようである。
少なくとも、最大の敵は隣の男であり、次に強大なのは食欲であると聞かされている。あくまでこの女が言う事なので、世の女性がどう思われるか、果たして僕には想像もつかない。
「毎度毎度モノローグを挟むわね。ポエマーになったら?」
そしていつも通りに僕の思考を読み取る。読み取った上で文句を言う。
「今詩だけで食べてける人ってものすごく少ないんだぞ。いい詩っていっぱいあるのに」
「仕方ないわよ。文化は死滅して、あらゆる表現は排他され、最後の最後には有力者たちのお遊びだけが残り、それが後の文化とされるのがこの世の理よ」
なんて夢のない……。
「世紀末覇者に助けてもらいましょ」
「いや……世紀末までもう大分あるからさ……」
「じゃあ今度の世紀末に助けてもらおうかしら」
「そこまで生きるんかい」
「私の人生はロングランするわよ」
公開拡大してくれる劇場があればいいケドな。
目の前でぱしゃと水が爆ぜた。
ここは名古屋市港区。名古屋港水族館である。正確には水族館のイルカエリア。水が満たされた水槽を横から観ているのではなく、地上から水面を観る形の場所である。
水族館はいい。
水族館が嫌いだという女の子を見たことがないし、何よりもスナメリが可愛い。この水族館には居ないけど。
「バカね。女の子だって水族館が苦手って子、居るわよ」
「別に女の子全員が好きだなんて言ってないだろ」
「そう聞こえるわよ」
もちろん、女の子と人格は別だ。性別は人格形成に大きく作用するだろうけれど、性別と人格は別なのである。僕は女の子と付き合っているのではなく、隣に居る人と付き合っているのだ。
だが、今日ばかりは女の子に用事があった。このロケーションはそれも含めている。
水族館。ここでケンカしているカップルを見たことがない。
今日の計画を滞りなく進めるために、僕はここを選んだ。今日だけはもめるわけにはいかない。こいつの機嫌をとらねばならないのだ。
彼女は気持ちよさそうに泳ぐイルカを観て、笑った。薄紅色の唇が瑞々しく開かれ、三日月になった口が音を漏らす。
「イルカって美味しいの?」
……。
「静岡辺りではイルカの味噌煮があるらしいよ。そして美味いらしい」
目先を追うな。その場その場の状況で動くなよ。今は耐えろ。
どこかの甘ちゃん博打打ちの声が聞こえてきた。
そうだ。耐えよう。
「そうよ。耐えなさい」
そう。今は耐え……。
「耐えて、私の話を展開させ、せいぜいご機嫌をとることね」
「……チョコレートでしたっけ?」
諦めたら試合終了だってバスケの監督が言ってたからな。
「あれは女の敵よ。有り得ないわ。ダイエットしている時に見たら、隣の男よりも腹が立つもの!」
くるくると泳ぎ回るイルカプールを前に、拳を握りながらも力説する彼女。そしてなぜか余った手で僕の頬をつねる。
心なしか、イルカがこちらをみて笑った気がした。
「そもそもチョコレートって何なの? 女に仇なす為に生まれてきたの? バカにしてるの? 私はいつになったらナックルの生死を知れるの?」
「洋菓子で、そういうわけではなくて、知性はなくて、新刊は明日貸してやるよ」
久しぶりの新刊だったので貸し忘れていた。嫌味じゃないよ。
「さぁ、いつものごとく、チョコレートの話をしなさい。ディスコするのよ」
「ワンルームじゃダメなの?」
「別に嫌いじゃないけど、なんかワンルームでディスコって、ジュリーを思い出すのよね」
「それは無茶だろ」
「なんでよ。盛り上がるのよ? ワンマンショーなのよ? 誰も居ないのよ? 振り返らないのよ?」
「確かにかっこいいけど、ちょっと女の子三人ダンスユニットとは違うだろ」
「そういうこと言うと怒るわよ」
勝手にしやがれ。
「あんたの両親が」
「お前、成人してまで親をケンカに持ち出される身になってみろよ……」
わざわざ呼び出されて、居間に正座で、本気で男女関係を心配される二十代男子。
「絵柄的にキツいわね」
「じゃやんなよ」
「じゃ言いなさいよ」
「何を」
「チョ・コ・レ・イ・ト?」
……耐えるんだ。
「……ディスコ」
彼女がにっこりと、可愛く笑った。
――――――――――◇――――――――――
「えっと、法的にチョコレートは禁止されたことがあるんだっけ」
屋外のイルカコーナーから移動し、僕たちは中へ入った。エスカレーターを下り、大きな水槽を目の前にする。中では小さなペンギンが猛スピードで泳いでいた。
ペンギンを目で追いながら敵の話をする彼女。別にいいけど。
「それはアニメの話だな。今分かってるだけではそういった史実はない。だが……」
「だが?」
「EU。欧州連合で論争が起きたことがある」
さすがに驚いたのか、彼女は大きな目をさらに大きく丸くした。気のせいか、水槽の中に居るペンギンもこちらをみている気がした。可愛いような、可愛くないような。
「チョコレートで?」
「そう。経済として大事だったようだな。これは『チョコレート戦争』として比較的有名な話だ」
「詳しく話しなさい」
彼女の目がぎらりと光る。疾るペンギンを追いながらも、その目は僕に続きを促した。
ごほん。
「EUが発足する前、同じような組織があった。名前をEECと言うんだが、これにイギリスが加盟するに至った」
「それまでは加盟してなかったのね」
「そうだな。そして加盟した時、チョコレートの違いが問題になった。しかも法レベルで」
「法で?」
ヨーロッパ連合国が議題にチョコレートを上げるだなんて、考えもしなかったのだろう。理解し難いのか「はぁー……」とため息をもらす。
「チョコレートの作り方を知ってるか?」
「いやぁ……。いつも湯煎だから……」
ありがとう明治様。
「ま、普通はね。今回の場合は、製造方法の違いから来る成分の違いが問題になった。これまでEECでは『チョコレートの油脂はカカオ油脂百パーセントのみ』と法律で定められていたんだが……」
「イギリスのは違ったと」
「そう。イギリスは油脂をカカオのみに限定せず、マンゴーやパームの油脂も使用していた。そこで色んな物を統一しようとしていたEECはこの問題を論争することになったわけだ」
ヨーロッパを代表するお偉いさん方が、チョコチョコ叫ぶ議会……。
「面白いかもしんない」
「日本の議会でやったら怒られそうだよな」
「でもそれくらいの文化への敬意が欲しいわよねー」
「ちなみに結果は“イギリスだけ特例”となったんだが、そこだけ日本っぽいよな」
「決めるだけまだましよ」
排除しようとするよりはね。
「そもそも、チョコレートは歴史があるお菓子で、まさに試行錯誤を重ねて作られたお菓子だ。原料であるカカオがまず気難しい植物で、栽培がとても難しい。さらに、それを醗酵し、乾燥させ、焙煎して、ふるい分けなくてはならない。それでようやっとカカオ豆と呼べる状態になる。昔はこれを砕いて、トウモロコシの粉等と一緒に水に混ぜて飲んでいたらしい」
「で味は?」
まるで単独で潜入作戦を行う戦士のような低い声。
「……お前……」
隣の女がつぶやいた。女と言うものは敵が多いようである。
少なくとも、最大の敵は隣の男であり、次に強大なのは食欲であると聞かされている。あくまでこの女が言う事なので、世の女性がどう思われるか、果たして僕には想像もつかない。
「毎度毎度モノローグを挟むわね。ポエマーになったら?」
そしていつも通りに僕の思考を読み取る。読み取った上で文句を言う。
「今詩だけで食べてける人ってものすごく少ないんだぞ。いい詩っていっぱいあるのに」
「仕方ないわよ。文化は死滅して、あらゆる表現は排他され、最後の最後には有力者たちのお遊びだけが残り、それが後の文化とされるのがこの世の理よ」
なんて夢のない……。
「世紀末覇者に助けてもらいましょ」
「いや……世紀末までもう大分あるからさ……」
「じゃあ今度の世紀末に助けてもらおうかしら」
「そこまで生きるんかい」
「私の人生はロングランするわよ」
公開拡大してくれる劇場があればいいケドな。
目の前でぱしゃと水が爆ぜた。
ここは名古屋市港区。名古屋港水族館である。正確には水族館のイルカエリア。水が満たされた水槽を横から観ているのではなく、地上から水面を観る形の場所である。
水族館はいい。
水族館が嫌いだという女の子を見たことがないし、何よりもスナメリが可愛い。この水族館には居ないけど。
「バカね。女の子だって水族館が苦手って子、居るわよ」
「別に女の子全員が好きだなんて言ってないだろ」
「そう聞こえるわよ」
もちろん、女の子と人格は別だ。性別は人格形成に大きく作用するだろうけれど、性別と人格は別なのである。僕は女の子と付き合っているのではなく、隣に居る人と付き合っているのだ。
だが、今日ばかりは女の子に用事があった。このロケーションはそれも含めている。
水族館。ここでケンカしているカップルを見たことがない。
今日の計画を滞りなく進めるために、僕はここを選んだ。今日だけはもめるわけにはいかない。こいつの機嫌をとらねばならないのだ。
彼女は気持ちよさそうに泳ぐイルカを観て、笑った。薄紅色の唇が瑞々しく開かれ、三日月になった口が音を漏らす。
「イルカって美味しいの?」
……。
「静岡辺りではイルカの味噌煮があるらしいよ。そして美味いらしい」
目先を追うな。その場その場の状況で動くなよ。今は耐えろ。
どこかの甘ちゃん博打打ちの声が聞こえてきた。
そうだ。耐えよう。
「そうよ。耐えなさい」
そう。今は耐え……。
「耐えて、私の話を展開させ、せいぜいご機嫌をとることね」
「……チョコレートでしたっけ?」
諦めたら試合終了だってバスケの監督が言ってたからな。
「あれは女の敵よ。有り得ないわ。ダイエットしている時に見たら、隣の男よりも腹が立つもの!」
くるくると泳ぎ回るイルカプールを前に、拳を握りながらも力説する彼女。そしてなぜか余った手で僕の頬をつねる。
心なしか、イルカがこちらをみて笑った気がした。
「そもそもチョコレートって何なの? 女に仇なす為に生まれてきたの? バカにしてるの? 私はいつになったらナックルの生死を知れるの?」
「洋菓子で、そういうわけではなくて、知性はなくて、新刊は明日貸してやるよ」
久しぶりの新刊だったので貸し忘れていた。嫌味じゃないよ。
「さぁ、いつものごとく、チョコレートの話をしなさい。ディスコするのよ」
「ワンルームじゃダメなの?」
「別に嫌いじゃないけど、なんかワンルームでディスコって、ジュリーを思い出すのよね」
「それは無茶だろ」
「なんでよ。盛り上がるのよ? ワンマンショーなのよ? 誰も居ないのよ? 振り返らないのよ?」
「確かにかっこいいけど、ちょっと女の子三人ダンスユニットとは違うだろ」
「そういうこと言うと怒るわよ」
勝手にしやがれ。
「あんたの両親が」
「お前、成人してまで親をケンカに持ち出される身になってみろよ……」
わざわざ呼び出されて、居間に正座で、本気で男女関係を心配される二十代男子。
「絵柄的にキツいわね」
「じゃやんなよ」
「じゃ言いなさいよ」
「何を」
「チョ・コ・レ・イ・ト?」
……耐えるんだ。
「……ディスコ」
彼女がにっこりと、可愛く笑った。
――――――――――◇――――――――――
「えっと、法的にチョコレートは禁止されたことがあるんだっけ」
屋外のイルカコーナーから移動し、僕たちは中へ入った。エスカレーターを下り、大きな水槽を目の前にする。中では小さなペンギンが猛スピードで泳いでいた。
ペンギンを目で追いながら敵の話をする彼女。別にいいけど。
「それはアニメの話だな。今分かってるだけではそういった史実はない。だが……」
「だが?」
「EU。欧州連合で論争が起きたことがある」
さすがに驚いたのか、彼女は大きな目をさらに大きく丸くした。気のせいか、水槽の中に居るペンギンもこちらをみている気がした。可愛いような、可愛くないような。
「チョコレートで?」
「そう。経済として大事だったようだな。これは『チョコレート戦争』として比較的有名な話だ」
「詳しく話しなさい」
彼女の目がぎらりと光る。疾るペンギンを追いながらも、その目は僕に続きを促した。
ごほん。
「EUが発足する前、同じような組織があった。名前をEECと言うんだが、これにイギリスが加盟するに至った」
「それまでは加盟してなかったのね」
「そうだな。そして加盟した時、チョコレートの違いが問題になった。しかも法レベルで」
「法で?」
ヨーロッパ連合国が議題にチョコレートを上げるだなんて、考えもしなかったのだろう。理解し難いのか「はぁー……」とため息をもらす。
「チョコレートの作り方を知ってるか?」
「いやぁ……。いつも湯煎だから……」
ありがとう明治様。
「ま、普通はね。今回の場合は、製造方法の違いから来る成分の違いが問題になった。これまでEECでは『チョコレートの油脂はカカオ油脂百パーセントのみ』と法律で定められていたんだが……」
「イギリスのは違ったと」
「そう。イギリスは油脂をカカオのみに限定せず、マンゴーやパームの油脂も使用していた。そこで色んな物を統一しようとしていたEECはこの問題を論争することになったわけだ」
ヨーロッパを代表するお偉いさん方が、チョコチョコ叫ぶ議会……。
「面白いかもしんない」
「日本の議会でやったら怒られそうだよな」
「でもそれくらいの文化への敬意が欲しいわよねー」
「ちなみに結果は“イギリスだけ特例”となったんだが、そこだけ日本っぽいよな」
「決めるだけまだましよ」
排除しようとするよりはね。
「そもそも、チョコレートは歴史があるお菓子で、まさに試行錯誤を重ねて作られたお菓子だ。原料であるカカオがまず気難しい植物で、栽培がとても難しい。さらに、それを醗酵し、乾燥させ、焙煎して、ふるい分けなくてはならない。それでようやっとカカオ豆と呼べる状態になる。昔はこれを砕いて、トウモロコシの粉等と一緒に水に混ぜて飲んでいたらしい」
「で味は?」
まるで単独で潜入作戦を行う戦士のような低い声。
「……お前……」
作品名:食べ物による小話 #5「チョコレート」 作家名:倉雲響介