みんな負けて、それでいい
「もうお前に教えることは、何もない。吾輩の知っていることは、すべて伝授した」
私の親であり、師でもある老人が、大層響くあのしわがれた声で言った。
広い道場の中、東西南北の壁にそれぞれ三本ずつ設けられた蝋燭が、老人と私を淡く照らす。
「お前は、吾輩を超えた。……遍く分野において有能な弟子だった。この十七年間、実に教え甲斐のある日々だったものだ」
不動のポーカーフェイスを常に決め込んでいるこの老人からは、表情こそは読めないが、僅かに蝋燭の炎の灯が優しく和らいだ気がした。
自分のリュックの中身は、大量の輪ゴム。それ以外は何も入ってない。
四十年間勤めた会社を定年退職し、この道に入って十七年。齢はもう八十に近い。師は、もう百二十を超えている。だからこそ、師の言葉は一つ一つが重く、私の心に強く響くのである。
「もう、吾輩はお前に出会うことはない。何も言うな。ただ前を向いて立ち去れ。……吾輩は自室に戻る」
師はそう言うと、奥へ行ってしまった。最後に見慣れた部屋を見渡す。壁に掛けられた“的”。的は真中が削られ、少し窪んでいる。リュックを下ろして的の手入れをした。外へ出て裏に回る。そこに一つの石碑があった。輪ゴムの形をしたこの碑を前に、目を瞑る。
私は師の言葉を守り、遠く離れた東国の方向を見て歩き出した。
私の親であり、師でもある老人が、大層響くあのしわがれた声で言った。
広い道場の中、東西南北の壁にそれぞれ三本ずつ設けられた蝋燭が、老人と私を淡く照らす。
「お前は、吾輩を超えた。……遍く分野において有能な弟子だった。この十七年間、実に教え甲斐のある日々だったものだ」
不動のポーカーフェイスを常に決め込んでいるこの老人からは、表情こそは読めないが、僅かに蝋燭の炎の灯が優しく和らいだ気がした。
自分のリュックの中身は、大量の輪ゴム。それ以外は何も入ってない。
四十年間勤めた会社を定年退職し、この道に入って十七年。齢はもう八十に近い。師は、もう百二十を超えている。だからこそ、師の言葉は一つ一つが重く、私の心に強く響くのである。
「もう、吾輩はお前に出会うことはない。何も言うな。ただ前を向いて立ち去れ。……吾輩は自室に戻る」
師はそう言うと、奥へ行ってしまった。最後に見慣れた部屋を見渡す。壁に掛けられた“的”。的は真中が削られ、少し窪んでいる。リュックを下ろして的の手入れをした。外へ出て裏に回る。そこに一つの石碑があった。輪ゴムの形をしたこの碑を前に、目を瞑る。
私は師の言葉を守り、遠く離れた東国の方向を見て歩き出した。
作品名:みんな負けて、それでいい 作家名:月下和吉