未来の予感
第1章
その男が牛を見ている時の目は真剣そのもの。
何かを必死に探っているような目。
男は牛を前から横から後ろから鋭い目で見渡していた。
そして、おもむろに白衣のポケットから聴診器を取り出して耳にかけた。
すると、白黒模様をしている牛の皮膚の上に聴診器を押し当てて何かを考え込むようにして下を向いていた。
(何が聞こえるんだろう?)
今度は聴診器をあてながら右手の中指でポンポンと牛の体を叩いている。
(人間でもやってるわ)
結子は牛舎の真ん中あたりにいる、病気らしい牛を診察している男の姿をじっと見つめていた。
どうやら診察が終わったらしく、農家のおじちゃんに忙しく手を動かしながら診察の結果を説明しているようだった。
50代と見える農家のおじちゃんは真剣な表情で時々頷きながら男の話を聞いている。
男は牛舎から出てきて、結子の前を無言で通り過ぎると、乗ってきた白い軽自動車のバンに戻り、荷台に無造作に積んである医薬品を漁り始めた。
ようやく目当ての薬が見つかったようで、注射器でそのバイヤル瓶を吸い始めた。
(あんな大きな注射器で注射するのかしら?)
注射器はおそらく50mlの大きさだろう。結子は看護師なので見た目の大きさでだいたいの容量はわかっていた。
男は注射器を持ちながら結子の前をまた無言で通り過ぎようとした。
「あのう、それ、注射するんですか?」と堪らずに聞いた。
男は結子の存在に気づいたようだった。
「ああ、すぐ終わるから」と言い残すと牛舎の中へ消えていった。
大きな注射器をお尻に刺された牛は嫌がって暴れていたが、男は機敏に反応しながらゆっくりと注射液を押し込んでゆく。
牛はその男をめがけて、3回ぐらい後ろ足で蹴り上げていた。
男は見事に身をかわしていた。
(スゴイ!なんて身軽なの?)
第2章
車の窓から通り過ぎて流れていく田んぼには、小さな緑が顔を出し始めていた。
日射しが照りつけているのに雨が降っている。
日本海側の地域に多い時雨だった。
隣で車を運転している男のビンからアゴまで伸びている黒いヒゲと着ている白衣が妙に対照的だった。
今、次の診療先の酪農家へ向かっている。
「聞いていいですか」
「ん?」
「診察の時、最初に、いつも、じっーと牛を見てますよね」
「ああ」
「どこが悪いかわかるんですか?」
男は少し間を置いて言った。
「だいたい、わかるよ」
「え?見ているだけで?」
「そう」
「ホントですか?」
「牛は喋れないけど。苦しいよー。ここが痛いよーって」
「ホントに?」
「ホント」
車が交差点を回った。
「それって、洞察力って言うんですか?」
「そんな大したもんじゃないけど」
「獣医さんって。物言わない動物が相手だから洞察力が必要だって。何かの本で読んだことがあります」
「そうかもな」
「スゴイですね」
「全然。経験を積めば誰でもわかるよ」
「でも、人間のお医者さんが患者さんをじっーと見ていたら恐いでしょうね」
「ハハッ。逃げ出すだろうな」
「ですよね」
「人間はどこが痛いか?って、聞いたらわかるよ」
「そうですよね」
「動物も言ってくれれば、随分助かるんだけどなあ」
車は診療先の農家の駐車場に止まった。
「人のお医者さんはレントゲン撮ったり、血液検査したり、いろんな検査してますけど、獣医さんって、聴診器だけでわかるんですか?」
「そんなことないよ。わからない時はいろんな検査もするし」
結子は子供の時から獣医さんに憧れていた。
将来、なりたい職業だと周りの人にも言っていた。
でも、勉強ができる方ではなかったので諦めるしかなかった。
第3章
結子がその男を初めて見たのは今から1年ほど前だった。
店長と配達に行った帰りに「つるや」という食堂で夕食をとった時だった。
その男は結子とは対面になる隣のテーブルに座っていていた。
その男を見た瞬間に衝撃を感じたのを今も覚えている。
脳の中で眠っていたものが突如、目覚めるような感じ。
それまで、「一目惚れ」という事がどんなことなのか理解できなかった。
友達が「一目惚れしちゃった」と言っていても「何それ?」って思っていた。
確かに、男の人を一目見て素敵だなあと思うことはあった。
しかし、それで好きになったり、恋をしたりってことはなかった。
結子は初めて、「これが一目惚れなの?」って思った。
なぜか、他人のように思えなかった。
運命の人に出逢うと何かを感じるって、聞いたことがあるけど・・・
その後、その男に逢うために毎日のように「つるや」へ通っていた。
男はほとんど毎日、そこに来て、夕食を食べていた。
「つるや」は結子の通勤ルートの途中にあった。
県道沿いにある木造平屋の古びた食堂には仕事帰りらしい作業服姿の男たちが多かった。
なので、若い女が一人で食事をするには少し勇気がいることだった。
店に入るといつもその男が見える席を選んで座った。
見ているだけで切ない想いがこみ上げてくる。
なぜ惹かれていくのか、よくわからない。
名前は何ていうのかしら?
どんな声しているんだろう?
仕事は何しているんだろう?
歳はいくつかな?
その日、店のテーブルにつくと焼き魚定食を注文した。その男も焼き魚定食を食べていた。
テーブルに一人座って黙々と夕食を食べている男の姿をいつものようにチラリチラリと見ていた。
男は箸を動かし、口を動かしながらテーブルの上に置かれた本を覗きこんでいる。この食堂にいるときはいつも本を読んでいた。
(何を読んでいるんだろう?)
男が無心に読んでいる本が何なのか、ずっと気になっていた。
結子は「よしっ」と心の中で言いながら立ち上がって、お手洗いへ向かった。
男のテーブルの横を通り過ぎながらその男が読んでいる本を見下ろした。
(・・・何これ?)
字が小さくてよく見えないが、ぎっしり詰まった文字の間にグラフらしいものがあるのが見えた。
少なくとも低俗な雑誌ではないようだった。
結子はトイレの鏡に映る自分の姿を見ながら考えた。
(覗き込むわけにはいかないし・・・。でも、もう一度チャンスがあるわ)
男のテーブルの横をゆっくりと歩きながら、今度は覗き込んだかもしれない。
見出しらしい大きく書かれている文字が目に留まった。
(ルーメン、アンモニア、・・・。???)
第4章
「スゴく、気になっている人がいるんだけど」
「へえー、だあれ?」
「知らない人」
「???。何それ」
「だから、わからないのよ」
「どういうこと?」
「一目惚れしちゃったみたい」
職場の同僚で親友の真衣は呆れたような顔をしながらホットコーヒーを啜った。
結子は大学の看護学部を卒業してから地元の市民病院で看護師として3年間働いていた。夜勤もありハードな仕事だったがそれなりの報酬は貰えた。
しかし、病院内の医師中心の世界に嫌気がさして、2年前に退職した。
その男が牛を見ている時の目は真剣そのもの。
何かを必死に探っているような目。
男は牛を前から横から後ろから鋭い目で見渡していた。
そして、おもむろに白衣のポケットから聴診器を取り出して耳にかけた。
すると、白黒模様をしている牛の皮膚の上に聴診器を押し当てて何かを考え込むようにして下を向いていた。
(何が聞こえるんだろう?)
今度は聴診器をあてながら右手の中指でポンポンと牛の体を叩いている。
(人間でもやってるわ)
結子は牛舎の真ん中あたりにいる、病気らしい牛を診察している男の姿をじっと見つめていた。
どうやら診察が終わったらしく、農家のおじちゃんに忙しく手を動かしながら診察の結果を説明しているようだった。
50代と見える農家のおじちゃんは真剣な表情で時々頷きながら男の話を聞いている。
男は牛舎から出てきて、結子の前を無言で通り過ぎると、乗ってきた白い軽自動車のバンに戻り、荷台に無造作に積んである医薬品を漁り始めた。
ようやく目当ての薬が見つかったようで、注射器でそのバイヤル瓶を吸い始めた。
(あんな大きな注射器で注射するのかしら?)
注射器はおそらく50mlの大きさだろう。結子は看護師なので見た目の大きさでだいたいの容量はわかっていた。
男は注射器を持ちながら結子の前をまた無言で通り過ぎようとした。
「あのう、それ、注射するんですか?」と堪らずに聞いた。
男は結子の存在に気づいたようだった。
「ああ、すぐ終わるから」と言い残すと牛舎の中へ消えていった。
大きな注射器をお尻に刺された牛は嫌がって暴れていたが、男は機敏に反応しながらゆっくりと注射液を押し込んでゆく。
牛はその男をめがけて、3回ぐらい後ろ足で蹴り上げていた。
男は見事に身をかわしていた。
(スゴイ!なんて身軽なの?)
第2章
車の窓から通り過ぎて流れていく田んぼには、小さな緑が顔を出し始めていた。
日射しが照りつけているのに雨が降っている。
日本海側の地域に多い時雨だった。
隣で車を運転している男のビンからアゴまで伸びている黒いヒゲと着ている白衣が妙に対照的だった。
今、次の診療先の酪農家へ向かっている。
「聞いていいですか」
「ん?」
「診察の時、最初に、いつも、じっーと牛を見てますよね」
「ああ」
「どこが悪いかわかるんですか?」
男は少し間を置いて言った。
「だいたい、わかるよ」
「え?見ているだけで?」
「そう」
「ホントですか?」
「牛は喋れないけど。苦しいよー。ここが痛いよーって」
「ホントに?」
「ホント」
車が交差点を回った。
「それって、洞察力って言うんですか?」
「そんな大したもんじゃないけど」
「獣医さんって。物言わない動物が相手だから洞察力が必要だって。何かの本で読んだことがあります」
「そうかもな」
「スゴイですね」
「全然。経験を積めば誰でもわかるよ」
「でも、人間のお医者さんが患者さんをじっーと見ていたら恐いでしょうね」
「ハハッ。逃げ出すだろうな」
「ですよね」
「人間はどこが痛いか?って、聞いたらわかるよ」
「そうですよね」
「動物も言ってくれれば、随分助かるんだけどなあ」
車は診療先の農家の駐車場に止まった。
「人のお医者さんはレントゲン撮ったり、血液検査したり、いろんな検査してますけど、獣医さんって、聴診器だけでわかるんですか?」
「そんなことないよ。わからない時はいろんな検査もするし」
結子は子供の時から獣医さんに憧れていた。
将来、なりたい職業だと周りの人にも言っていた。
でも、勉強ができる方ではなかったので諦めるしかなかった。
第3章
結子がその男を初めて見たのは今から1年ほど前だった。
店長と配達に行った帰りに「つるや」という食堂で夕食をとった時だった。
その男は結子とは対面になる隣のテーブルに座っていていた。
その男を見た瞬間に衝撃を感じたのを今も覚えている。
脳の中で眠っていたものが突如、目覚めるような感じ。
それまで、「一目惚れ」という事がどんなことなのか理解できなかった。
友達が「一目惚れしちゃった」と言っていても「何それ?」って思っていた。
確かに、男の人を一目見て素敵だなあと思うことはあった。
しかし、それで好きになったり、恋をしたりってことはなかった。
結子は初めて、「これが一目惚れなの?」って思った。
なぜか、他人のように思えなかった。
運命の人に出逢うと何かを感じるって、聞いたことがあるけど・・・
その後、その男に逢うために毎日のように「つるや」へ通っていた。
男はほとんど毎日、そこに来て、夕食を食べていた。
「つるや」は結子の通勤ルートの途中にあった。
県道沿いにある木造平屋の古びた食堂には仕事帰りらしい作業服姿の男たちが多かった。
なので、若い女が一人で食事をするには少し勇気がいることだった。
店に入るといつもその男が見える席を選んで座った。
見ているだけで切ない想いがこみ上げてくる。
なぜ惹かれていくのか、よくわからない。
名前は何ていうのかしら?
どんな声しているんだろう?
仕事は何しているんだろう?
歳はいくつかな?
その日、店のテーブルにつくと焼き魚定食を注文した。その男も焼き魚定食を食べていた。
テーブルに一人座って黙々と夕食を食べている男の姿をいつものようにチラリチラリと見ていた。
男は箸を動かし、口を動かしながらテーブルの上に置かれた本を覗きこんでいる。この食堂にいるときはいつも本を読んでいた。
(何を読んでいるんだろう?)
男が無心に読んでいる本が何なのか、ずっと気になっていた。
結子は「よしっ」と心の中で言いながら立ち上がって、お手洗いへ向かった。
男のテーブルの横を通り過ぎながらその男が読んでいる本を見下ろした。
(・・・何これ?)
字が小さくてよく見えないが、ぎっしり詰まった文字の間にグラフらしいものがあるのが見えた。
少なくとも低俗な雑誌ではないようだった。
結子はトイレの鏡に映る自分の姿を見ながら考えた。
(覗き込むわけにはいかないし・・・。でも、もう一度チャンスがあるわ)
男のテーブルの横をゆっくりと歩きながら、今度は覗き込んだかもしれない。
見出しらしい大きく書かれている文字が目に留まった。
(ルーメン、アンモニア、・・・。???)
第4章
「スゴく、気になっている人がいるんだけど」
「へえー、だあれ?」
「知らない人」
「???。何それ」
「だから、わからないのよ」
「どういうこと?」
「一目惚れしちゃったみたい」
職場の同僚で親友の真衣は呆れたような顔をしながらホットコーヒーを啜った。
結子は大学の看護学部を卒業してから地元の市民病院で看護師として3年間働いていた。夜勤もありハードな仕事だったがそれなりの報酬は貰えた。
しかし、病院内の医師中心の世界に嫌気がさして、2年前に退職した。