参時の冒険譚
一 参時の冒険
1
三時の少し前に僕,関戸広司は,目を覚ました。頭痛が激しい。だいぶうなされたせいで,口がカラカラに乾いていた。水を飲みに台所に向かおうとしたが,金縛りにあっているのか,体がちっとも動こうとしない。
部屋の東側の窓からは,まだ光は差し込んでこない。完全な真夜中だった。ふと,壁にかかった時計が目に入る。カシオの素っ気ないアナログ盤の針が,ちょうど三時を指したところだった。
その瞬間,僕の体が宙に浮いた。これは夢なのか? と一瞬疑いはしたが,実際に夢の中でこのように疑うことはまずない。
唯一金縛りにあっていない首を回して,布団を見下ろした。
「おお,本当に浮いてる」
その内,視界はだんだん白くなっていき,僕の体が,どこかに動いていくような気がした。
2
気がつくと,僕は寝巻き姿のまま砂漠の上に立っていた。頭痛はもう収まっている。
足を前に進めてみると,まるで海の上を歩いているような感触だった。足が砂の中に深く沈んでいくのが意外に楽しい。こんなだとは思っていなかったので,何度も足踏みを繰り返してみた。ただ,裸足なので熱い。
そして,ついに左足の小指のやけどが砂に触れた。
「熱っ痛っ!」
誰もいない広い砂漠にそう叫んだら,ついさっきまで忘れていた喉の渇きが急に蒸し返してきた。しかし,この辺に水があるとも思えない。
「最悪だよ」
僕は,進む気も失せ,砂漠の上に大の字に転がった。陽光があまりにも眩しい。
今年僕は,受験生である。全国規模に有名とは言えなくとも,県内では有数の進学校を狙っている。砂漠を見た時には癖でつい,砂漠,サハラ砂漠,アフリカ,緯経線の国境線,植民地…などと,連想記憶をしていた。この方法が,一番頭に入りやすい。
さて,と一息ついた。この後どうなるのだろう? 僕はもう寝ようと思い,一面の砂漠の上で羊を数え始めた。
「…羊が五十匹」
小さい頃は,これだけ数えればもう寝むれていたが,今はそう簡単じゃなくなってきた。
さりげなく目を閉じると,僕の周りに五十匹の羊がいた。その妄想に「いや,ないな」と苦笑しつつ,また目を開けた。
その時,目の前に女性が見えた気がした。強い日差しが影になって,誰なのかは分からない。肩を揺さぶられた。
「ねえ,大丈夫?」
「大丈夫なの? 広司」
母さんの声がした。目を開けると,母さんが心配そうに覗き込んでくる。
そうか,夢だったんだ。
「七時になっても起き出してこないから,心配したのよ」
正面の壁の時計をちらっと見た。カシオの針が,七時をもう回っている。
「やばい!」
こんなに寝坊をしたのは小学生の頃の風邪をひいた時以来だ。僕は着替えを済ますと,朝食のパンにかぶりついた。
カバンを抱えて慌てて自転車に跨った時には,夢のことなど既に忘れていた。
3
「ただいま,夕食なに?」
「お兄ちゃんお帰り」
「あ,お帰りなさい。今ホットケーキ作ってるから」
何気なく学校が終わり,何気なく帰宅し,何気なく言葉が交わされた。寝坊した日から,もう一週間が過ぎようとしている。
ベーキングパウダー,重曹,洗濯機…? 理科で連想記憶をすると,余計なものまで入ってきてしまう。受験まであと半年を切っていた。
数時間の勉強を終えて,寝床についた。羊を数えながら,そういえばあの夢の中の女性は誰だったのだろう,と考えた。しかし,そんなことは分かるはずもなく,いつの間にか広司は,深い眠りに落ちていた。
4
頭痛で目が覚めた。体は金縛りにあっている。どうやら,この前と同じ状況らしかった。時計の針は三時を指している。
頭痛は,英語で(ヘッドエイク)というらしい。(エイク)は調子が悪いという意味で,それが頭(ヘッド)で起こるので,(ヘッドエイク)なのだそうだ。
今僕の身には,ヘッドエイクが起きている。そうしながら,僕の体は宙に浮き,また視界が白くなっていった。
目を開けると,僕はテントの中で横になっていた。近くには一人女性がいた。直感で,声をかけてきたあの女性だと分かった。ショートヘアで,僕の好みのタイプだ。
「あ,起きたね」
彼女はそう言って,「飲んで」と水の入ったアルマイトのカップを手渡してきた。
「…ありがとう」
夢にしては,その水はおいしかった。
「ここはどこ?」
「ああ,私の家」
彼女は言った。
僕は,カップを持ったままテントの外に出てみた。すると,そこにはテントの集落があった。
「オアシスだ!」
彼女がその声につられて出てきた。
「あなたは旅の人?」
僕はその質問には答えず,カップの水を飲み干した。
「不思議な衣装ね」
彼女は言った。衣装? とっさに連想記憶の世界に入った。朝鮮人はチマチョゴリ,インド人はサリー,イスラム教は…。僕は,彼女の服装を見た。声をかけてきた時とは違い,今は黒い布を纏っている。
「イスラム教?」
「そう,エジプトは大体そうよ」
その発言で,ここがエジプトだとようやく分かった。
「名前なんていうの?」
「関戸広司。広司って呼んで」
「コージ? このへんでは聞かないね。私はライラ」
「助けてくれてありがとう」
「取りあえず今日は遅いから,ここに泊まっていって。このタオルケット使っていいから。明日村長に会いに行こう。多分歓迎してくれるよ」
5
「広司,もう七時半よ」
目を覚ますと,そこは自分の部屋だった。
あの後,僕はライラに甘えて泊まることにした。温度は高いものの湿度が低かったので,寝不足も響き,すっかり寝入ってしまっていた。
「広司,あなた大丈夫?」
滅多にない寝坊がこう二回も続いたので,母も頭をかしげていた。
「大丈夫」
時間はこの前よりも遅く,朝の読書の時間には遅れてしまうだろう。僕は,自転車のペダルを踏み込んだ。
昼休み,僕は図書室に向かった。冷房がかなり効いた部屋で,目当ての本を探す。『エジプトの全貌』と背表紙に書いてある本を棚から抜き出すと,席に着いた。
本を探すのにかなり手間取ったので,少ししか調べられなかった。だが,十分だ。僕はその本を借りず,棚に戻して教室に向かった。
6
その二・三日後の午前三時,また僕は目を覚ました。ヘッドエイクは未だに慣れない。僕の体は宙に浮いた。隣の部屋で,妹が寝言を言っている。視界が白くなる時,妹の寝言が「行かないでよ」と聞こえたので,一瞬背中がゾクッとした。
目を開けると,ライラのテントの中にいた。ライラはもう起きだしているようで,テントの中には僕以外にはいなかった。僕は,タオルケットをたたむと,テントの外を覗いてみる。
「うわっ,すごいな」
集落の人の皆が,立膝になり,ある方向に頭を向けている。じっと見ていると,どこかから鐘が鳴り,続々と人が退散していった。
ライラが,その中から寄ってきた。
「コージおはよう。こっちに来て」
「うん」
寝癖を気にしつつも,村長の家だというところまでついて行く。この前は気がつかなかったが,このオアシス周辺には,百を超えるテント,つまり家族が住んでいるようだった。
「ここよ。祈りの前に,話はしてあるから」
1
三時の少し前に僕,関戸広司は,目を覚ました。頭痛が激しい。だいぶうなされたせいで,口がカラカラに乾いていた。水を飲みに台所に向かおうとしたが,金縛りにあっているのか,体がちっとも動こうとしない。
部屋の東側の窓からは,まだ光は差し込んでこない。完全な真夜中だった。ふと,壁にかかった時計が目に入る。カシオの素っ気ないアナログ盤の針が,ちょうど三時を指したところだった。
その瞬間,僕の体が宙に浮いた。これは夢なのか? と一瞬疑いはしたが,実際に夢の中でこのように疑うことはまずない。
唯一金縛りにあっていない首を回して,布団を見下ろした。
「おお,本当に浮いてる」
その内,視界はだんだん白くなっていき,僕の体が,どこかに動いていくような気がした。
2
気がつくと,僕は寝巻き姿のまま砂漠の上に立っていた。頭痛はもう収まっている。
足を前に進めてみると,まるで海の上を歩いているような感触だった。足が砂の中に深く沈んでいくのが意外に楽しい。こんなだとは思っていなかったので,何度も足踏みを繰り返してみた。ただ,裸足なので熱い。
そして,ついに左足の小指のやけどが砂に触れた。
「熱っ痛っ!」
誰もいない広い砂漠にそう叫んだら,ついさっきまで忘れていた喉の渇きが急に蒸し返してきた。しかし,この辺に水があるとも思えない。
「最悪だよ」
僕は,進む気も失せ,砂漠の上に大の字に転がった。陽光があまりにも眩しい。
今年僕は,受験生である。全国規模に有名とは言えなくとも,県内では有数の進学校を狙っている。砂漠を見た時には癖でつい,砂漠,サハラ砂漠,アフリカ,緯経線の国境線,植民地…などと,連想記憶をしていた。この方法が,一番頭に入りやすい。
さて,と一息ついた。この後どうなるのだろう? 僕はもう寝ようと思い,一面の砂漠の上で羊を数え始めた。
「…羊が五十匹」
小さい頃は,これだけ数えればもう寝むれていたが,今はそう簡単じゃなくなってきた。
さりげなく目を閉じると,僕の周りに五十匹の羊がいた。その妄想に「いや,ないな」と苦笑しつつ,また目を開けた。
その時,目の前に女性が見えた気がした。強い日差しが影になって,誰なのかは分からない。肩を揺さぶられた。
「ねえ,大丈夫?」
「大丈夫なの? 広司」
母さんの声がした。目を開けると,母さんが心配そうに覗き込んでくる。
そうか,夢だったんだ。
「七時になっても起き出してこないから,心配したのよ」
正面の壁の時計をちらっと見た。カシオの針が,七時をもう回っている。
「やばい!」
こんなに寝坊をしたのは小学生の頃の風邪をひいた時以来だ。僕は着替えを済ますと,朝食のパンにかぶりついた。
カバンを抱えて慌てて自転車に跨った時には,夢のことなど既に忘れていた。
3
「ただいま,夕食なに?」
「お兄ちゃんお帰り」
「あ,お帰りなさい。今ホットケーキ作ってるから」
何気なく学校が終わり,何気なく帰宅し,何気なく言葉が交わされた。寝坊した日から,もう一週間が過ぎようとしている。
ベーキングパウダー,重曹,洗濯機…? 理科で連想記憶をすると,余計なものまで入ってきてしまう。受験まであと半年を切っていた。
数時間の勉強を終えて,寝床についた。羊を数えながら,そういえばあの夢の中の女性は誰だったのだろう,と考えた。しかし,そんなことは分かるはずもなく,いつの間にか広司は,深い眠りに落ちていた。
4
頭痛で目が覚めた。体は金縛りにあっている。どうやら,この前と同じ状況らしかった。時計の針は三時を指している。
頭痛は,英語で(ヘッドエイク)というらしい。(エイク)は調子が悪いという意味で,それが頭(ヘッド)で起こるので,(ヘッドエイク)なのだそうだ。
今僕の身には,ヘッドエイクが起きている。そうしながら,僕の体は宙に浮き,また視界が白くなっていった。
目を開けると,僕はテントの中で横になっていた。近くには一人女性がいた。直感で,声をかけてきたあの女性だと分かった。ショートヘアで,僕の好みのタイプだ。
「あ,起きたね」
彼女はそう言って,「飲んで」と水の入ったアルマイトのカップを手渡してきた。
「…ありがとう」
夢にしては,その水はおいしかった。
「ここはどこ?」
「ああ,私の家」
彼女は言った。
僕は,カップを持ったままテントの外に出てみた。すると,そこにはテントの集落があった。
「オアシスだ!」
彼女がその声につられて出てきた。
「あなたは旅の人?」
僕はその質問には答えず,カップの水を飲み干した。
「不思議な衣装ね」
彼女は言った。衣装? とっさに連想記憶の世界に入った。朝鮮人はチマチョゴリ,インド人はサリー,イスラム教は…。僕は,彼女の服装を見た。声をかけてきた時とは違い,今は黒い布を纏っている。
「イスラム教?」
「そう,エジプトは大体そうよ」
その発言で,ここがエジプトだとようやく分かった。
「名前なんていうの?」
「関戸広司。広司って呼んで」
「コージ? このへんでは聞かないね。私はライラ」
「助けてくれてありがとう」
「取りあえず今日は遅いから,ここに泊まっていって。このタオルケット使っていいから。明日村長に会いに行こう。多分歓迎してくれるよ」
5
「広司,もう七時半よ」
目を覚ますと,そこは自分の部屋だった。
あの後,僕はライラに甘えて泊まることにした。温度は高いものの湿度が低かったので,寝不足も響き,すっかり寝入ってしまっていた。
「広司,あなた大丈夫?」
滅多にない寝坊がこう二回も続いたので,母も頭をかしげていた。
「大丈夫」
時間はこの前よりも遅く,朝の読書の時間には遅れてしまうだろう。僕は,自転車のペダルを踏み込んだ。
昼休み,僕は図書室に向かった。冷房がかなり効いた部屋で,目当ての本を探す。『エジプトの全貌』と背表紙に書いてある本を棚から抜き出すと,席に着いた。
本を探すのにかなり手間取ったので,少ししか調べられなかった。だが,十分だ。僕はその本を借りず,棚に戻して教室に向かった。
6
その二・三日後の午前三時,また僕は目を覚ました。ヘッドエイクは未だに慣れない。僕の体は宙に浮いた。隣の部屋で,妹が寝言を言っている。視界が白くなる時,妹の寝言が「行かないでよ」と聞こえたので,一瞬背中がゾクッとした。
目を開けると,ライラのテントの中にいた。ライラはもう起きだしているようで,テントの中には僕以外にはいなかった。僕は,タオルケットをたたむと,テントの外を覗いてみる。
「うわっ,すごいな」
集落の人の皆が,立膝になり,ある方向に頭を向けている。じっと見ていると,どこかから鐘が鳴り,続々と人が退散していった。
ライラが,その中から寄ってきた。
「コージおはよう。こっちに来て」
「うん」
寝癖を気にしつつも,村長の家だというところまでついて行く。この前は気がつかなかったが,このオアシス周辺には,百を超えるテント,つまり家族が住んでいるようだった。
「ここよ。祈りの前に,話はしてあるから」