アインシュタイン・ハイツ 204号室 「日常風景」
引越し当日
「お前らほんとに大丈夫か?あいさつ回り、保護者がいた方がいいんじゃねーの?」
「だーかーらー」
『大丈夫だって!』
「気にせず帰れよ兄貴はさ!」
「手伝ってくれて、ほんとに感謝してっからさ!」
ぐいぐいと、桜が兄貴をアパートの外へと押し出していく。俺はそれを窓から眺めながら、顔がにやにや笑うのを止めようともしていない。
新しい生活が今日から始まる。そのことに俺たちはわくわくしていて、だからこそ兄貴にはとっとと帰ってもらいたかった。
引越し作業を手伝ってくれたのは感謝してるけど、それとこれとは話が別。
「なんかあったらすぐ連絡しろよ?」
『わかってるって!』
「つーか毎日連絡取る約束じゃん!何言ってんの?」
「何、兄貴もうボケた?」
「阿呆」
「いてっ」
いつもどおりのやりとり。思わず吹き出すと、兄貴がこっちを向いてにやりと笑った。
「本当に大丈夫なんだな?」
「だからさっきから言ってるじゃんか!」
「わかった。…じゃ、俺帰るから。ちゃんと自炊しろよー」
「了解!またな兄貴ー」
「来週また来るから」
『早いよ!』
「相変わらずハモるなー」
ははは、と兄貴が笑う。そしてそのまま、さっきまでの渋る感じはどこへいったやら、あっさりと角を曲がっていなくなった。
「…変なの」
「寂しいんだろ、兄貴も」
「だろーなー。じゃなくて早く上がってこいって」
「あ、おう!」
桜が駆けてくるのを確認して、俺は室内に目を向ける。
引越してきたばかりだから、もちろんダンボールだらけ。その中でひとつだけある紙袋を手にとる。
中身はそば。いわゆる引越しそばというやつ。せっかくなのでセオリーに則ってみたいと、ここに来る途中兄貴に頼んで買ってきた。
「えーっとどこに配るんだっけ…」
「大家さんと、とりあえず両隣」
ひょこっと顔だけ部屋に入れて桜が答える。
「そうだったそうだった」
急に思いついて買いに行ったものだから、最低限しか買えなかったのだった。
ちなみに一部屋につき二食分。
「まずどっから行く?」
「そりゃもちろん」
『大家さんだよな』
というわけで、俺たちは紙袋を手に階下に向かう。
そういえば、ここの大家さんは日本人ではないらしい。不動産屋さんには『ミドリさん』と呼ばれていたし、見た目も日本人風なので名前を聞くまでわからなかった。
ここだけの話、意外とモテるんじゃないかと思う。とくに根拠はないが…顔というか、雰囲気が。
部屋の前に立って呼び鈴を鳴らすと、程なくしてその人が出てきた。
服装からすると、今さっき帰ってきたところに見える。そしてどことなくぐったりして見える。何故だろう。
「今日からお世話になります、204号室に入居した常磐です!」
「これ、お蕎麦です!俺らの地元で美味しいって有名なやつなんで是非!」
はりきって包みを差し出すと、ゆっくりした動作で包みを受け取られ
「ありがとうございます」
とゆったりした口調で返された。
契約のときにも思ったが、この人はどうも口数が少ない人なのだと思う。
まぁそんなことを気にする俺らじゃないけど。
『ではよろしくお願いします!失礼します!』
動きまできっちり揃ってお辞儀をすると、ばたばたと二人競うように階段へ。
続いて向かったのは階段から近い203号室。呼び鈴を鳴らすと、少し間があってから扉が開いて中から男が顔を出した。
第一印象は天パーのおじさんだ。人の良さそうな顔。ちょっとヒゲが濃いかな?
その顔が、俺たちを見て一瞬ぎょっとする。そりゃあ、いつもどおりに扉を開けてみたら、目の前に同じ顔したやつが二人並んでたりしたら、普通は誰だってびっくりするだろう。
しかも人をおどかすのが好きな俺たちだ。俺は一瞬桜と目を合わせて、心の中でガッツポーズを取った。
「初めまして、隣に越してきた常磐といいます!」
「これ、お蕎麦です!俺らの地元で美味しいって有名なやつなんで是非!」
「お、おぉ…ありがとうございます。尾路山です」
思った通り、気圧されている。ファーストアタックは成功だ。
もう一度、桜とアイコンタクトを取る。次の瞬間には俺たちの心は決まっていた。
「あ、見ての通り俺たち双子なんです。俺が虹、こっちが桜です。コウは空にある『にじ』の漢字で、オウは『さくら』って書きます」
と、“桜”が俺たちを紹介した。
つまり、虹である俺のことを「桜」と、桜である自分のことを「虹」と、紹介したことになる。初っ端から入れ替わり決行だ。
なんとなく、この人ならこういう悪戯を許してくれそうな気がしたのだ。
「えっと…虹さんに」
「そんなかしこまって呼ばなくていいですよ、俺らの方がよっぽど年下なんですから」
「そうかい?じゃあ…虹くんに桜くん、だね」
『はい!今日からよろしくお願いします!』
またも揃ってお辞儀をする。もちろん偶然なのだが、知らない人には威力は抜群だ。
びっくりしている様子の尾路山さんをそのままに、俺たちはさらに205号室へ向かった。
部屋の前に並び、早速呼び鈴を鳴らす。だが今度は何度鳴らしても誰も出てくる様子がなかった。
「…もしかしていないっぽい?」
「どうやら電気も点いてないしなー…」
ちょっとした好奇心でドアノブに手をかけてみたが、もちろん開いてるわけもなく。
「どうする?」
「まぁ、後ででいいんじゃね?」
「だな」
幸いにも部屋には冷蔵庫がある。心配しなくてもそんなにすぐ悪くなったりはしないだろう。
「じゃーどうする?」
「…そば食べたくね?」
「お、さっすがー」
ぱちん、指を鳴らす。こういうときに便利なんだ、この以心伝心っぷり。
「商店街の端っこに蕎麦屋あったよな?」
「そーそー、あれ気になってたんだよな!」
「じゃーあそこ行ってみるか、自炊は明日からでいいよな」
「おー。その前にそれ置いてかないと」
「だな。先、外出てて」
「了解」
一旦部屋に戻って冷蔵庫にそばを収納。
財布をとり、改めてアパートを出る。
すると、桜がアパートを満足気な様子で眺めていた。
「どした?」
「いや、待ちに待った二人暮らしだなーと思って」
「あー。だな」
前から、親元を離れて暮らしてみたかった。そのために実家からはちょっと遠い高校を受験したのだ。
俺たちはしばらく、そこでアパートを眺めていた。
これから始まる新生活に、胸を高鳴らせながら。
「じゃ、行くかー」
「おー」
作品名:アインシュタイン・ハイツ 204号室 「日常風景」 作家名:泡沫 煙