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水の月

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 ふと周囲のざわめきが遠のき、まだ小さい子どもの声が聞こえた。迷子が親を呼んでいるのだろうか。しかし、首を巡らせてもそれらしい子どもは見当たらない。
 耳で聞いた声ではないのかもしれないと思いながら、ルーシエルは流れる人波から少し外れ、立ち止まった。それからもう一度、目を閉じてみる。
 確かに、呼んでいる。まだ小さな子だろう。
 ルーシエルは感覚を澄ませて、方向を探った。そう遠くない。顔を上げて、視線を移動させていく。

 いた。

 何を商っているのか見えないが、たくさんの人だかりができている屋台の、人の足にもまれるようにして一人で立っている女の子がいた。たぶんまだ、四つか五つくらいの、可愛い金の巻毛の子だ。泣いてはいなが気難しそうな顔で、足の隙間から通りすぎる人達を睨んでいた。怒ったように口をへの字に結んでいるのは、そうしていないと涙がこぼれてしまうからだろう。そんな思い出は、ルーシエルにもある。
 この祭のような騒ぎで、親とはぐれてしまったのだろう。ここは、小さな子どもが一人でいてもさして危険はないが、黙って通りすぎるわけにもいくまい。

 ルーシエルがそちらに足を向けたときだった。一瞬、歓声が湧き上がったのかと勘違いしたが、それは悲鳴だった。
 屋台から炎が上がっている。人だかりは我先にと逃げ出し、あの小さな女の子は突き飛ばされて転んでしまったのが見えた。ルーシエルはあわてて駆け寄った。立ち上るほこりと逃げる人々をかき分けるようにして、小さな手を掴む。少々乱暴に引っ張り上げて、抱き上げた。安心する間もなく、ルーシエル自身も背中から突き飛ばされて、転びかけてしまう。それをなんとか踏みとどまって、屋台から離れた。
 ようやく逃げ出して後ろを振り返ると、さいわいボヤで済んだようで、駆け付けた警備士や隣の屋台の主人らが消し止めていた。騒ぎを聞いて集まってきた野次馬や、逃げ出して遠巻きに振り返った者も、安堵の表情を浮かべ、それぞれ広場や次の屋台へと散らばっていった。
 ルーシエルも改めて腕に抱いた女の子を見た。女の子は目をまんまるに見開いて、ルーシエルを見つめ返している。
「びっくりしたね。怪我はない?」
 ルーシエルは聞きながら、女の子の手足を確認する。てのひらや膝に擦り傷を作っている以外に、大きな怪我はなさそうだった。取り出したハンカチで、顔や髪の砂埃を払ってやっていると、女の子は瞳からぼろぼろと涙を溢れさせ、やがて大きな声で泣き出した。



 水と木陰を求めて、ルーシエルは女の子を抱いたまま広場へとやってきた。広場には定期的に行商人がやってくるため、隅に共同の井戸と家畜のための水飲み場が設けられている。そのわきのベンチに女の子を座らせ、濡らしたハンカチで傷を洗った。女の子は痛いと言って再び泣いたが、ルーシエルが軟膏を塗っているうちに、それも乾いた。
「これはね、うちで作ったよく効く薬なの。すぐによくなるから、大丈夫」
 軟膏は油脂に薬草を混ぜたもので、その色のすごさに気味悪そうな顔をしていた女の子だったが、薬を塗ってもらった安心感からか、次第に笑顔を見せてくれるようになっていた。
「ね、喉乾いたでしょ。待ってて、お茶持ってきてあげる」
 ルーシエルはすぐ近くの屋台から、蜂蜜入りのお茶を二杯買って、ひとつを女の子に手渡した。ベンチに二人で並んで腰かけ、ルーシエルは女の子と目線を合わせるために、少し前かがみになった。
「お名前教えてくれる? 私はルーシエルっていうの」
「フィニー……です」
 とってつけたような「です」が、ほほえましい。
「今日はお母さんと一緒にきたの?」
 ルーシエルの問い掛けに、フィニーはかぶりを振った。
「アルカートおじさまといっしょなの。でもね、おじさまが迷子になっちゃったから、探してたの」
 思わずルーシエルは微笑んだ。
「そうか、おじさまが迷子なんだね。じゃあ、一緒に探しにいこうか」
 その言葉に、フィニーの顔が輝いた。
「お姉さんは、おじさまを知ってるの?」
「ううん。おじさまは知らないけど、迷子を捜してくれるところを知ってるの。行ってみる?」
「うん、行く!」
 フィニーはぴょんとベンチから飛び降り、ルーシエルの手を握った。もう、傷の痛みは忘れてしまったようだった。
 ルーシエルは、広場の奥に建てられた大きなテントをちらりと見た。芝居はもう始まっていて、賑やかな音楽や、拍手などがときおり聞こえる。セラたちが待っているだろうと思ったが、この子を放っておくことなどできない。後で謝らなきゃ、と考えながら、ルーシエルはフィニーを連れて広場を出た。


作品名:水の月 作家名:雪藍色