水の月
プロローグ
よく晴れた五月の昼下がり、道いっぱいに敷きつめられた花びらが、風に舞っている。今日、誕生した幸せな一組のための、町の人々からの贈り物だ。
神殿の扉が開いて、華やかな婚礼衣装に身を包んだ二人が、ゆっくりと歩いてくる。その姿が見えると、人々は暖かな拍手と歓声で二人を迎えた。
豊かな金の髪を結い上げ、白い花で飾った花嫁は、とても美しい。彼女は、出迎えの人込みの中に、両親を見つけて手を振った。笑顔で手を振り返す母と、しんみりしている父がよく見えた。
その隣に、いつもどおり柔らかな笑みを浮かべて立っている少女がいる。それは、彼女がまだ幼い時から、ずっとその不思議な力で守ってくれている少女だった。
少女はまだほんの十四、五に見える。名はルーシエル。実際、十五の時の姿をしているのだと、以前教えてくれた。つやのあるまっすぐな髪は、時折、青く見えるほどに黒い。瞳は藍に金のまだら。大きくなったら美人になる、とは、よくフィニーも言われたが、少女ははなからそんなレベルではなかった。同じ女性であるフィニーでも、赤面してしまうほどの美しさなのだ。妙齢になったならば、どんなふうになるのかは、想像もつかない。けれど、彼女は初めて会った時からずっと同じ、十五才のままなのだった。
夜はごく近しい身内だけで、ガーデンパーティーを開く。その準備の間、フィニーは純白のドレスを脱いで、自室にぼんやりしていた。あと一時間ほどで、パーティーは始まるが、それまでは何もすることがない。今までが鬼のように忙しかったので、着替えるのも面倒くさい。フィニーはほとんど下着姿で、姿見の前に座っていた。
「お疲れさま、フィニー」
ふいに後ろから声をかけられた。つい、フィニーは振り向く前に鏡を見たが、フィニーの後ろには誰もいない。けれど、フィニーは驚かなかった。ゆっくり首を巡らせると、案の定、そこにはルーシエルがいた。
「ちょっとはしたない格好ね」
ふふっと笑ってルーシエルが言う。壁や鍵は、この少女にとって何の妨げにもならない。フィニーが、淋しいとき、助けが欲しいとき、誰より先にルーシエルはそばに来てくれるのだった。
「今日は来てくれて、ありがとう。嬉しかったわ。私、ルーシエルに花嫁姿を見てもらいたかったの」
ことん、と小さな音をたてて、フィニーは立ち上がった。そうすると、フィニーがルーシエルを見下ろす。
「私、こんなに大きくなったのね。始めは、ルーシエルがすごく大人に見えたのに」
「そうね。それに、もう来年はお母さんになるのよ」
フィニーは、はっとしたように、ルーシエルを見た。
「本当? いつ?」
「内緒」
「男の子、女の子?」
「それも内緒」
「ずるい」
フィニーはぷっと頬をふくらませた。椅子を横にどけて、床に直接座り込む。両膝を胸まで引き寄せて両腕で抱えると、その上に顎を乗せた。
「教えてくれるなら、ちゃんと最後まで教えてくれなくちゃ」
「楽しみは後にとっておくほうがいいじゃない?」
そう言って、ルーシエルはフィニーの向かいに、同じような恰好で腰を下ろした。
「初めて会った時から、もう……十六…十七年?もたつかしら」
フィニーは小首を傾げながら言った。
「そうね。フィニーが五つの時だったから、もうそれくらい前になるわね」
淀みなく答えるルーシエルに、フィニーは感慨深げな目をする。
長い付き合いだが、実際に「実体」のルーシエルと会っていられたのは、ほんの一年ほどのことだ。なにしろ小さい時のことだから、フィニーもはっきり覚えているわけではない。ただ、こうして目の前にはっきりと存在している彼女が、実は他の人には見えないのだと知ったのは、ちょうど日向葵の咲く頃だったと記憶している。
フィニーはそっとルーシエルに手を差し伸べた。腕に触れるか触れないかのところで、指先を止める。ルーシエルに触ることはできない。それ以上近づくと、突き抜けてしまうのだ。
「不思議ね。こうすると、温かいような気がするのよ」
「そう?」
ルーシエルは同じような仕種で、フィニーの手に両手を重ねる。
「温かい?」
「うん」
フィニーはこっくりと頷いた。人に触れている、というよりは、日溜まりにいるような暖かさを思い出す。
自分は「幽霊」なのだとルーシエルは言った。怪談に出てくる幽霊は大概冷たいと相場が決まっている。けれど、ルーシエルは恐ろしくも冷たくもなかった。
軽く扉が叩かれた。
「フィニー様、お支度はできまして?」
侍女が、扉の外から声をかける。フィニーは慌てて立ち上がった。まだ下着姿のままである。
「もうすぐできるわ。すぐに行きますと、母に伝えて」
フィニーは急いで衣装に手足を突っ込みながら言った。ただし、声はあくまでも落ちついている。人妻たるもの、焦った素振りを見せてはならない。ドレスのウエストのあたりをひっぱって直しながら、靴を片方づつ足で引き寄せる。
何も知らない扉の向こうの侍女は、はいと返事を残して立ち去った。その気配を感じ取って、フィニーは長く息を吐いた。
「そろそろ、時間みたいね。手伝ってあげたいところだけど……」
「ええ、ありがとう。また後で来てくれるでしょ?」
立ち上がったルーシエルを見て、フィニーは言った。にっこり笑って頷くと、手を振ってルーシエルは姿を消した。
ルーシエルは物に触ることができない。普通の人にはない、強い力で守ってくれることはできても、髪飾りを留めることはできない。触れ合って、存在を確かめたくても、それは不可能なことだった。
口に出すと、ルーシエルは決まって困った顔をする。だから、フィニーは言わない。そのかわりに、ルーシエルと出会った頃を思い出す。あんまり昔のことだから、どこまでが思い出でどこからが空想なのか、もう区別がつかない。けれど、その温かさだけは、はっきりと覚えている。この先も、きっと忘れないでいるだろう。
鏡に向かって化粧をなおし、ほつれた髪をピンで留める。最後にくるりと回って、全身を確かめてから、フィニーは扉を開けた。
庭に出る白い階段は、扇状になっていて外に向かって幅が広くなっている。そこへ行く途中の廊下に、今日のもう一人の主役であるラディスが待っていて、小走りにやってくるフィニーに腕を差し出した。
「さあ、お手をどうぞ、姫君」
ラディスは少しおどけた仕種で、お辞儀をする。
「ねえ、どこも変じゃない?」
フィニーははずんだ息を整えながら、ラディスの腕に手を置いた。
「綺麗だよ、リンフィニア」
「そう呼ばれると畏まっちゃう。フィニーでいいの」
「なんでさ。精霊の名前なんだろう。似合うのに」
小さな頃はラディスも「フィニー」と呼んでいたが、いつまでも略称で呼ぶのは、身分の高い女性にとっては失礼になる。せっかく神話に出てくる美しい精霊の名をもらったのだから、略したりしないほうがいいとラディスは思う。
「名前負けよ」
あっさりとフィニーは言った。二人は庭に続く道をゆっくりと歩いていく。
「?」
誰から見ても、フィニーは充分美しい。それは決して夫の贔屓目ではなかった。
「本当に綺麗って言うのは……」