ヒイロとたぬき
――――カタカタ…ガタン…トトン…トトン…
線路の繋ぎめに差し掛かると、何気に大きな振動をうむのだと、真庭八尋が知ったのは中学三年の受験日だった。その日から一年と半年が経ち、その振動が朝夕の日常と化していた。
非日常が日常となることを不思議に思いながら窓の外、流れる景色を眺めていた。
四人掛けのボックス席には、長い脚を組んだ八尋だけが座る。現時刻、七時五分。今から徐々に学生や社会人が増えていく時間帯だ。
パラリ。カバンから取り出した本のページを開く。ほぼ同時に、次の駅に到着し扉が開いた。
聞き慣れない靴音が聞こえ、顔を上げたときに斜め前に男が座った。
(おお…イケメン…)
前髪の長い黒髪、整えられた眉の下には睫毛の長い眦が僅かに下がる双眸。年齢は八尋より上に見える。黒づくめの服に黒のブーツ。右耳には三つ、左耳には二つのピアス。
八尋は本を持った手を足の上に乗せ、本を読む姿勢を取りつつ前髪の隙間から男の姿を眺め、ゆるりと口角が上がるのがわかった。
(朝からいい目の保養…)
胸の内で呟き、パラリと本のページを捲る。
人はだいぶ増えた。なのに、奇妙なことに八尋の座るボックス席には誰も近寄ろうとしない。一瞬、首を傾げたがすぐにそれもそうかと納得する。
(彼のせい、かな?)
ちらりと目を向ければ、カチッと音がしたかのように視線が重なった。ほんの数秒、目を逸らす事もなく、どちらも動かなかった。同じような体格の男が、同じように頬杖を付いた姿で斜めに相手を見続ける。
先に動いたのは男だった。ゴツッとブーツの踵の音を鳴らして、人の波を掻き分けて八尋の降りるひとつ前の駅で降りて行ってしまった。
(綺麗な、伽羅の色だった)
笑みを深めながら本をカバンにしまい、ボックス席から立ち上がった。
駅から徒歩五分のところに八尋が通う高校がある。ゆったりとした足取りで正門をくぐり、靴箱へと向かった。教師も疎らな校舎を歩み、カバンから取り出した鍵をカギ穴に差し込んだ。
かちゃん…。
極力小さな音を立てて開錠し、スライドしたのは美術室の扉。絵の具などの独特なにおいが漂う室内に足を踏み入れた。
書きかけのキャンバスの足元にカバンを置き、何冊ものスケッチブックが立て掛けられた棚に歩み寄る。スケッチブックには、アルファベットで綴られた「ヒイロ」の名前。八尋の作品に記されるその名前は、数冊のスケッチブックの表紙に書かれている。
真新しい一冊と一緒に置いていたペンケースを手にとり、八尋は近場のイスに腰掛けてぱらばらと何も描いていないページを開くと、鉛筆を手に迷いなく線を刻み始めた。
デッサンに没頭していると、扉が開いて来客を知らせた。
「お、いた。おはよーヒイロ」
「…おはよう、椎名」
入室してきたのは、学校指定のシャツを手にした黒のTシャツ姿の長身の青年、椎名雅樹。八尋の幼馴染みであり、生徒会副会長を務めている。
八尋がゆったりとした反応を見せるのは、自分の世界から抜けきることが出来ていないからだ。スケッチブックをテーブルに置き、肩と首を回して硬直した筋肉を解きほぐしながら確認した時計は八時十五分を指している。
「もう、こんな時間…?椎名、時計早めた?」
「アホか、今入って来ただろうが」
集中し過ぎと雅樹が辟易とした表情で言い、八尋の手元を覗き込んだ。
「…こいつ…」
「知り合い?今日、電車で見掛けて、久々に絵が描きたくなっちゃって」
「ああ、だから図書室居なかったのか…」
普段の八尋は登校してすぐに図書室に向かい、時間が来るまで読書に勤しんでいる。しかし、今日はそこに居なかったため、八尋に用事があった雅樹は彼を探し回る羽目になってしまったのだった。
「で、これ誰?」
指したのは自身で描いた黒を纏う男。
雅樹は一瞬だけ躊躇いを浮かべたが、真っ直ぐに見上げてくる八尋に頭を掻きながら深いため息を吐き出した。
「佐貫瀧。一年D組在籍、出席番号十二の今年一番の問題児」
「へー…年下、なんだ」
見えなかったな。
鉛筆を口元に当て、思い立ったようにスケッチブックに何事かを書きこんだ。それを視線で追った雅樹の眉間には徐々に皺が刻み込まれていく。
右肩上がりの角ばった文字が記したのは、サヌキタキと高一、年下の文字。
「興味持っちゃった訳ね…」
「そういうこと。さて、教室行こうか」
スケッチブックを棚に戻し、八尋は自身のカバンを取ってゆったりとした動作で歩き始めた。雅樹は深く息を吐き出し、やれやれとゆるく首を振って八尋の後に続いて足を踏み出した。
八尋が美術室を後にしてからおよそ一時間後。
コツン、コツン……カラカラ…。
授業中で誰もいない廊下を、黒を纏う男がゆったりとした足取りで歩いていた。
佐貫瀧。入学したばかりの一年生とは思えぬ一八〇近い身長と筋肉のついた体を黒で隠して、誰にもばれないように訪れたのは美術室。
極力音を立てないように扉を閉め、室内を見渡した。瀧はある人物が描いた絵を見るのが好きだった。在学中の生徒なのだから、コソコソせずに堂々と入ればいいものをと思わなくはないが、瀧は自身が学校にとって不穏分子であることを重々に理解していたし、そんな自分が芸術を好んでいるなど知られるには幾分体裁が悪かった。
教室の後方にある描きかけのキャンバスには、何かが書き足されたような印象はない。記憶にあるものと何の変化が見当たらず、少しばかり残念に思った。
ブーツを鳴らしてスケッチブックが立て掛けてある棚へと歩み寄った。
真新しい一冊を手に取り、『ヒイロ』と小さく名前の書かれた表紙をぱらりと捲る。中庭の風景、美術室から見下ろした校庭、友人であろう青年、教師のスケッチが多く描かれている。五ページ目を捲った瞬間、身体が強張った。
「お、俺…?」
視線の先には、鉛筆で描かれた瀧自身が伏し目がちに頬杖をついている。その服装は現在着ているものだとすぐにわかった。付けているピアスも大まかに描かれてはいるが、ほとんど差異がない。
そう言えば、と今朝のことを思い出す。
夜遊びから家に帰る道すがら、ふと美術室の絵がどうなったのか気になり、夜に出歩いた格好のまま電車に乗り込んだ。その時、ボックス席で相席になった男と、一度目が合い、その眼差しから逃げるように降車駅である駅のひとつ前で降りてしまった。
「……まさか、あのイケメン…?いや、まさか、な…」
浮かんだ思考を打ち消すように小さく息を吐き、棚の中に転がっていた短い鉛筆を手に取ると、自身の些細な個人情報の下にさらりといくつかの文字を書いて、ぱたりとスケッチブックを閉じて元の場所に戻すと、踵を返して入室してきたときと同じように極力音を立てないように美術室から出て行った。
*
「あれー…?」
昼休み。美術室を訪れた八尋はスケッチの続きをと思い、スケッチブックを開いて首を傾げた。
視線を落とした先には、自分が描いた『サヌキタキ』の顔、名前、些細な個人情報が並び、更にその下に見慣れぬ文字が書かれている。角ばってはいるが流れるような滑らかな筆跡が画く――あなたの絵が、好きです。 たぬき――の文字。
「…きつねこぶたぬき…?」
線路の繋ぎめに差し掛かると、何気に大きな振動をうむのだと、真庭八尋が知ったのは中学三年の受験日だった。その日から一年と半年が経ち、その振動が朝夕の日常と化していた。
非日常が日常となることを不思議に思いながら窓の外、流れる景色を眺めていた。
四人掛けのボックス席には、長い脚を組んだ八尋だけが座る。現時刻、七時五分。今から徐々に学生や社会人が増えていく時間帯だ。
パラリ。カバンから取り出した本のページを開く。ほぼ同時に、次の駅に到着し扉が開いた。
聞き慣れない靴音が聞こえ、顔を上げたときに斜め前に男が座った。
(おお…イケメン…)
前髪の長い黒髪、整えられた眉の下には睫毛の長い眦が僅かに下がる双眸。年齢は八尋より上に見える。黒づくめの服に黒のブーツ。右耳には三つ、左耳には二つのピアス。
八尋は本を持った手を足の上に乗せ、本を読む姿勢を取りつつ前髪の隙間から男の姿を眺め、ゆるりと口角が上がるのがわかった。
(朝からいい目の保養…)
胸の内で呟き、パラリと本のページを捲る。
人はだいぶ増えた。なのに、奇妙なことに八尋の座るボックス席には誰も近寄ろうとしない。一瞬、首を傾げたがすぐにそれもそうかと納得する。
(彼のせい、かな?)
ちらりと目を向ければ、カチッと音がしたかのように視線が重なった。ほんの数秒、目を逸らす事もなく、どちらも動かなかった。同じような体格の男が、同じように頬杖を付いた姿で斜めに相手を見続ける。
先に動いたのは男だった。ゴツッとブーツの踵の音を鳴らして、人の波を掻き分けて八尋の降りるひとつ前の駅で降りて行ってしまった。
(綺麗な、伽羅の色だった)
笑みを深めながら本をカバンにしまい、ボックス席から立ち上がった。
駅から徒歩五分のところに八尋が通う高校がある。ゆったりとした足取りで正門をくぐり、靴箱へと向かった。教師も疎らな校舎を歩み、カバンから取り出した鍵をカギ穴に差し込んだ。
かちゃん…。
極力小さな音を立てて開錠し、スライドしたのは美術室の扉。絵の具などの独特なにおいが漂う室内に足を踏み入れた。
書きかけのキャンバスの足元にカバンを置き、何冊ものスケッチブックが立て掛けられた棚に歩み寄る。スケッチブックには、アルファベットで綴られた「ヒイロ」の名前。八尋の作品に記されるその名前は、数冊のスケッチブックの表紙に書かれている。
真新しい一冊と一緒に置いていたペンケースを手にとり、八尋は近場のイスに腰掛けてぱらばらと何も描いていないページを開くと、鉛筆を手に迷いなく線を刻み始めた。
デッサンに没頭していると、扉が開いて来客を知らせた。
「お、いた。おはよーヒイロ」
「…おはよう、椎名」
入室してきたのは、学校指定のシャツを手にした黒のTシャツ姿の長身の青年、椎名雅樹。八尋の幼馴染みであり、生徒会副会長を務めている。
八尋がゆったりとした反応を見せるのは、自分の世界から抜けきることが出来ていないからだ。スケッチブックをテーブルに置き、肩と首を回して硬直した筋肉を解きほぐしながら確認した時計は八時十五分を指している。
「もう、こんな時間…?椎名、時計早めた?」
「アホか、今入って来ただろうが」
集中し過ぎと雅樹が辟易とした表情で言い、八尋の手元を覗き込んだ。
「…こいつ…」
「知り合い?今日、電車で見掛けて、久々に絵が描きたくなっちゃって」
「ああ、だから図書室居なかったのか…」
普段の八尋は登校してすぐに図書室に向かい、時間が来るまで読書に勤しんでいる。しかし、今日はそこに居なかったため、八尋に用事があった雅樹は彼を探し回る羽目になってしまったのだった。
「で、これ誰?」
指したのは自身で描いた黒を纏う男。
雅樹は一瞬だけ躊躇いを浮かべたが、真っ直ぐに見上げてくる八尋に頭を掻きながら深いため息を吐き出した。
「佐貫瀧。一年D組在籍、出席番号十二の今年一番の問題児」
「へー…年下、なんだ」
見えなかったな。
鉛筆を口元に当て、思い立ったようにスケッチブックに何事かを書きこんだ。それを視線で追った雅樹の眉間には徐々に皺が刻み込まれていく。
右肩上がりの角ばった文字が記したのは、サヌキタキと高一、年下の文字。
「興味持っちゃった訳ね…」
「そういうこと。さて、教室行こうか」
スケッチブックを棚に戻し、八尋は自身のカバンを取ってゆったりとした動作で歩き始めた。雅樹は深く息を吐き出し、やれやれとゆるく首を振って八尋の後に続いて足を踏み出した。
八尋が美術室を後にしてからおよそ一時間後。
コツン、コツン……カラカラ…。
授業中で誰もいない廊下を、黒を纏う男がゆったりとした足取りで歩いていた。
佐貫瀧。入学したばかりの一年生とは思えぬ一八〇近い身長と筋肉のついた体を黒で隠して、誰にもばれないように訪れたのは美術室。
極力音を立てないように扉を閉め、室内を見渡した。瀧はある人物が描いた絵を見るのが好きだった。在学中の生徒なのだから、コソコソせずに堂々と入ればいいものをと思わなくはないが、瀧は自身が学校にとって不穏分子であることを重々に理解していたし、そんな自分が芸術を好んでいるなど知られるには幾分体裁が悪かった。
教室の後方にある描きかけのキャンバスには、何かが書き足されたような印象はない。記憶にあるものと何の変化が見当たらず、少しばかり残念に思った。
ブーツを鳴らしてスケッチブックが立て掛けてある棚へと歩み寄った。
真新しい一冊を手に取り、『ヒイロ』と小さく名前の書かれた表紙をぱらりと捲る。中庭の風景、美術室から見下ろした校庭、友人であろう青年、教師のスケッチが多く描かれている。五ページ目を捲った瞬間、身体が強張った。
「お、俺…?」
視線の先には、鉛筆で描かれた瀧自身が伏し目がちに頬杖をついている。その服装は現在着ているものだとすぐにわかった。付けているピアスも大まかに描かれてはいるが、ほとんど差異がない。
そう言えば、と今朝のことを思い出す。
夜遊びから家に帰る道すがら、ふと美術室の絵がどうなったのか気になり、夜に出歩いた格好のまま電車に乗り込んだ。その時、ボックス席で相席になった男と、一度目が合い、その眼差しから逃げるように降車駅である駅のひとつ前で降りてしまった。
「……まさか、あのイケメン…?いや、まさか、な…」
浮かんだ思考を打ち消すように小さく息を吐き、棚の中に転がっていた短い鉛筆を手に取ると、自身の些細な個人情報の下にさらりといくつかの文字を書いて、ぱたりとスケッチブックを閉じて元の場所に戻すと、踵を返して入室してきたときと同じように極力音を立てないように美術室から出て行った。
*
「あれー…?」
昼休み。美術室を訪れた八尋はスケッチの続きをと思い、スケッチブックを開いて首を傾げた。
視線を落とした先には、自分が描いた『サヌキタキ』の顔、名前、些細な個人情報が並び、更にその下に見慣れぬ文字が書かれている。角ばってはいるが流れるような滑らかな筆跡が画く――あなたの絵が、好きです。 たぬき――の文字。
「…きつねこぶたぬき…?」