小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

アインシュタイン・ハイツ 102号室

INDEX|7ページ/19ページ|

次のページ前のページ
 

 どうもアインさんは、そういうのが好きな性質らしい。俺が肩に飛び乗ってきたアインさんを振り払おうと躍起になっている間に、俺の声を聞いた叔父が中から扉を開けてくれたのだが、途端にひょいと俺の肩から飛び降り、「騒いでたのはあなた一人よ」と言わんばかりのツンとした態度で優雅に廊下を歩いていったアインさんは、角を曲がる直前でちらりと俺を振り返り、やはりニタッと目を眇めて俺を笑った。
 間違いない。あれは確信犯だろ絶対。愕然とした俺に、しかし叔父は不思議な顔で「突っ立ってないで、早く入れよ」と言うばかりなのだった。
「で、頼んでたもん、買って来てくれたか」
「うん、まぁ、買ってきたよ。これでいいかな」
「おっし、上等。ありがとうな、助かった……ああ、お前が買い物に行ってる間に鍛治野が来てさ」
 微妙に釈然としないながらも、叔父に頼まれていた付箋紙とボールペンの入ったビニル袋を差し出すと、叔父はうんと一つ頷いて弁護士さんを振り返った。部屋の中央に置かれた座卓の前に胡座をかいていた、見た目はヤクザの弁護士さん――……鍛治野さんが、「カズキくん、お帰りー」と暢気に手を振るのに小さく会釈して部屋に入ると、鍛治野さんが恐ろしい強面をにこにこと歪めて微笑む。
「おっ、カズキくん、顔色随分よくなったなぁ。よしよし、いいぞ、辛いことあっても体力さえありゃ、大抵のことはなんとかなるもんだ」
 人生は体力勝負だぞ、と笑って座卓の隣に腰を下ろした俺の肩をばんばん叩いた鍛治野さんは、しかしふと腕時計を見ると、いそいそとした様子で立ち上がった。
「おっと、もうこんな時間か。んじゃ俺、いろいろ寄ってくところあるから、そろそろ帰るわ。何か進展あったら連絡するな」
「あいよ。手間かけるけど、よろしく頼むわ……あ、そうだ。カズキ」
 友人を見送るためだろう。鍛治野さんの深紫色のスーツの背中を追いかけるようにドアに向かった叔父は、次の瞬間思い出したように俺を見下ろして、少し困ったような顔をした。
「悪いが、今夜から仕事で一週間ばかし出かけなきゃいけなくなっちまってな。お前、しばらく一人で大丈夫か」
「え?ああ、別に平気だけど」
 この頃は、叔父の家に来たばかりのような凶暴な眠気に襲われることは少なくなって来ていた。始終叔父が部屋にいなければ落ち着かない、というようなこともなく、大体叔父にだって自分の生活という物はあるだろう。
 俺はもう平気だから、気にしないで行って来なよ、と俺が笑うと、叔父はほっとしたような顔になって「一応ミドリさんとお隣さんには言っておくから」と頭をかいた。
「言っておくからって、別に隣近所に面倒みてもらわないといけない歳でもないっつの……あれ、そういや叔父さん、仕事ってなにやってんだっけ?」
「ん?ああ、別に、ただのニートだ。気にするな……って、おい、鍛治野、ケータイ忘れてるぞ、ケータイ」
「…………」
 ニートって職業だったのか。
 つっこむ前に、しかしはぐらかすようにそんなことを言って、叔父はさっさと鍛治野さんの後を追いかけて行ってしまったので、俺は結局何も言えなかったのだった。

■■■

 アインシュタイン・ハイツについて。俺が見たことと聞いたこと。

 叔父が入居してもう随分経つと言う。アインシュタイン・ハイツと呼ばれるその古い建物は、駅から歩いて二十分ぐらいの商店街の裏手に、ひっそりと建っていた。近くにちょっと大きな公園があって、あまり遊具はないがその分大きな木や花が植えてあり、朝は森の中に居るみたいな鳥の声がするし、昼は窓を開けておけば子供たちのはしゃぐ声や、誰かが練習しているらしいトランペットの音、近所のおばさんたちが集まってやってる太極拳のリズム音楽なんかが聞こえてきたりして、これがなかなかおもしろい。
 木造で外観は相当古く、内装も相応に古くさかったが、壊れている箇所はきちんと補修され、部屋の手入れも行き届いていた。個々の部屋に風呂やきちんとした台所設備などはなかったが、住人共用のシャワーと台所があり、生活の不便だってあまり感じなかった。
 そんなハイツを一人でせっせと世話しているのが、ハイツの管理人である「ミドリさん」だ。「ご先祖様に外人はいなかったはずなんだけどねぇ」と、亡くなった母がため息をついていたほどの長身に育ってしまった叔父と負けず劣らず、ひょろりと背の高いその人は、叔父があんまりにも当たり前みたいにミドリさん、なんて呼ぶし、見た目もそんなに外人っぽい感じがしなかったもので、俺はてっきり日本人だとばかり思っていたのだが、なんと紳士の国イギリスで生まれ育った方なのだと言う。
 それが何故ミドリさんなのだろう、と思って叔父に聞いたら、叔父はきょとんと首を傾げて「そりゃ名前がミドリさんだからに決まってるだろう」と言った。
「確か上の名前がハマーンだかパーマンだか言ったはずだけどなぁ」なんて、ガンダムと藤子不二雄を力技で紳士の国とつなげたようなことをのたまう叔父にそれ以上の答えは求めず、郵便受けの表札をこっそり覗いたところによれば、彼のフルネームは「ハーマン・グリーン」さんと仰るらしい。なるほど、だから「ミドリさん」なのだ。納得。
 そんな調子で、管理人が外人さんだからなのか、それともただ単に家賃が安いからなのか、ハイツにはミドリさん以外にも外人さんや、近くの学校に通う学生さんなんかが多く入居しているらしかった。「なかなかの人気物件なんだぞ」と叔父が言うのを笑っていた俺だが、俺が叔父の部屋に転がり込んだ三月には閑散としていたハイツに四月の入居ラッシュが始まり、まばらだった郵便受けの表札もあっと言う間に新しい名前で埋め尽くされてしまえば、その認識も改めざるを得ない。
 満室になったハイツは賑やかだった。必死の形相で逃げるアインさんを、変な雄叫びをあげながら追いかけていくおっさんや、髪の毛にまで絵の具を飛び散らせた女の子。玄関で靴を履いてた少年を見た次の瞬間、顔を上げたら廊下の奥からまったく同じ顔の少年がぱたぱたと走って来るという、「お前らドッペルゲンガーかよ!」とつっこみたくなるような双子も居たし、買い物をしてるときにうっかり見かけたひったくり犯らしいバイクの二人組に、映画の中でしか見たことがないようなムエタイ式の物凄い打ち下ろし蹴りをかまして逃げた高校生と思しき少年が、俺が買い物を済ませてハイツに帰ってみたらひっそり階段を上っていくところだったなんてこともあった。
 そんな風に、大勢の人間が互いに干渉するでもなく、けれど一つ屋根の下にいるという暮らしは、今までこう言うところで暮らしたことがない俺にとってはなかなか新鮮な経験だった。
 ここでは同じ屋根の下で暮らしていても、人間同士の間がべったりし過ぎず、適度に距離があって、一人でいても辛くはないし、あまり寂しくもない。
 叔父が長い間此処に居を定めているのも、きっとそう言う所に理由があるのだろう。
 俺が知る限り、叔父は俺の両親と暮らしていた家を出てから二十年近く、一人ひっそりと暮らして来た筈なので。