アインシュタイン・ハイツ 102号室
「今は難しいことを考えろっても頭が働かないだろうから、複雑なことは置いといて、とりあえず今誰のところに居たいかってことだけハッキリさせておけ」と、叔父は言った。恐ろしいほどの真顔でそんなことを言うもので、思わず面食らった俺が何故を尋ねると、「俺の時、はっきりさせとかなかった所為で大変だったから」と予想外な答えが返ってきた。
詳しくを叔父は語らなかったが、何でも母と叔父がこの世に二人だけの家族になってしまった時、小学生だった叔父は、危うく施設送りになるところだったらしい。その経験があった分、叔父には俺がこれから遭遇しなければならない事態が、俺よりもよく見えていたのだろう。
俺の気持ちとは関係なく動いていく周囲が、「どうでもいい」で放っておけば俺に何をするのか、ということも。
「んで、向うさんが主張してる養育権ってのも、別に遺言書とかの根拠があって言ってるワケじゃねーみたいだし、そもそも我が日本国の法律に養育権なんて言葉はねえしな。それ以前にカズキくんの歳なら、後見人も養親も自分で指定できるし、あの子が嫌だつったら、もうそれが絶対だよ。出るとこ出たって勝つのはこっちだね、間違いない」
「そういや、確か十五歳以上なら、自分で指定できるんだよな、そういうの」
「おうよ。最近は十五歳以下でも、ちゃんと子供の話を聞いてから決めるケースのが多いらしいけどな……ま、何にしろ法的なアクションは先に起こしたモン勝ちだ。お前の会社の顧問弁護士さんにも事情は話しといたし、会社でのことはその人が全部処理してくれるって話だから、お前はもうなんにも心配しねーで、面倒な手続きは全部俺に任しとけ」
「ああ、悪ィな。持つべきものは悪徳弁護士の友人だ」
「そーだろそーだろって、悪徳ってなんだよ、悪徳ってよ」
その時の俺の希望は、とりあえず家には帰りたくない、というより、父方の親戚の誰かの家で過ごすのは嫌だと言うことと、しばらくの間だけでもいいから叔父のこの部屋で暮らしたい、というだけだったので、それを告げると叔父は「それならそれで、やらなきゃなんねぇ事があるな」と、びっくりするぐらいあっさり頷いた。そして今叔父と話している強面の弁護士さんと連絡を取り、俺の保護者を叔父にするための法的な手続きを、さっさとその人に依頼してしまった。
まさかそんなことになると思っていなかった俺は、ただでさえ家に転がり込んで色々迷惑をかけているのに、このままでは叔父にもっと迷惑がかかると思って必死に止めたが、叔父はかえってきょとんとした様子で「だってお前、家に帰りたくなくて、その上ここに居たいってなら、こうするのが一番だろうが」と言った。
それは大人の見栄なんかではなく、余裕を装っている訳でもなく、姉が死んで、参ってるところにもっと参ってる甥っ子が転がり込んできて、自分はなんとか乗り越える術を知ってるからいいけれど、子供でそんな術も知らず、色んなことに疲れ果ててる甥っ子をこれ以上疲れさせるのはかわいそうだから、しょうがない、親なんて無理だけど保護者ぐらいならなんとかやれるだろう、と言う感じで、恩に着せるとか、そういう大人の権力に酔っている人間がよくやるような悪趣味な様子だってまったくなかった。
必要なんじゃないか、と思ったことが、実際に必要だったからやるだけと言った具合に、ただ淡々と俺に関する問題を片づけて行く叔父の態度は、日々の自分の生活をひたむきに積み重ねてきた人に特有の、ある種の潔さに満ちていた。
「そんなら裁判所にはそういう風に申し立てしときましょ。その内調停ってことになったら、また詳しくお話に来てやっから……で、結局カズキくん、暫く此処に居させることにしたん?」
「ん?ああ、まぁ、今はちょっと不安定みたいだし、本人が此処に居たいって言ってるから。……家族で住んでた家に、一人で居たくないんだと」
「あー……なるほどね。確かにキッツイだろうなぁ、いきなり一人って。俺はそんな経験ないから、解るよ、なんて言えねぇけどさあ。でも信司、お前それで良いの?」
「良いって、何が?」
「いや、ほら、あの、キヨちゃんのこととかさ」
「――……」
漏れ聞こえてきた話から察するに、父方の親戚と叔父との間に某かの悶着があったようだが、今のところ弁護士さんが進める一連の手続きに支障はないらしい。
一段落した話に、部屋に入るなら今だな、と思った俺がドアノブに手をかけた瞬間、今度は知らない名前が耳に飛び込んできたので、俺は再びぎくりと手を止めた。
キヨ。初めて聞いた名前だ。
一体誰だろう。叔父の恋人だろうか。
「……まぁ、お前がいいってならいいけどね」
叔父が黙ったまま煙草の火をつける気配がして、弁護士さんがため息をついた。
そうして不意の言葉に虚を突かれ、再び部屋に入り損ねた俺の肩に、背後から音もなく忍び寄ってきた何かが突然とすんと乗っかって来たのが、その時のことだ。
「うにゃあん」
「ひぃっ!?」
突然の事に柄でもない悲鳴を上げ、動揺しながら肩越しに振り返ると、緩やかな重みを持つ柔らかい毛が俺の首筋をするりと撫で、甘えた振りで頬に擦りつけられる逆三角形の顔が、にたりと三日月型に微笑みながら俺の目をのぞき込んだ。
なめらかな灰色の毛並みのロシアンブルー。
このアインシュタイン・ハイツの管理人である、ミドリさんの部屋に住んでいる猫だ。
「ちょ、アインさん!?何なのお前、やめてくれよそーゆーの……ちょ、降りろってば!やめ、懐くな、くすぐったいって、髭!!」
アインさん、と叔父は呼ぶ。猫はその名を「アインシュタイン」と言うらしい。彼女――……叔父はこの猫のことを間違いなくそう表現したので、たぶん雌なのだろう――……には、正確に言えば名前はないらしいのだが、「アインシュタイン・ハイツの猫」というのが短くなって、そんな名前で皆が呼ぶようになったんじゃないか、と叔父は言っていた。実際、ここの住人は本当に色々な名前でこの猫のことを呼んでいるようだ。
なので、俺も叔父にならって「アインさん」と呼んでいるのだが、この猫、「さん」をつけて呼ばなきゃならんほど礼儀正しい猫では、少なくとも俺にとってはないのである。
「……何やってんだ、お前」
「いや、だってコイツが」
あの日、俺が叔父の部屋に転がり込んだ夜に見かけた時からふてぶてしそうな猫だと思ってはいたが、蓋を開けてみればとんでもない。アインさんは「ふてぶてしそうな猫」なのではなく、はっきりきっぱり「ふてぶてしい猫」なのだ。しかも俺の何がそんなに気に入ったのか、その日以来妙に俺に絡んできて、叔父は「懐かれたなぁ」なんて暢気なことを言って笑っているが、俺から言わせて貰えば、これはそんなに可愛らしい話ではない。
なんてったって、夜中にトイレに起きて、暗闇の中で手を洗っているとき、音もさせずに忍び寄ってきた何かに、いきなり背中に飛び乗られたりしてみなさいよ。俺だって猫は嫌いじゃないけど、これじゃ可愛いだのなんだのって以前に、軽く怪奇現象だろう。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 102号室 作家名:ミカナギ