正しいフォークボールの投げ方
第三球 無回転を意識して思いっきり投げることを心掛けるべし -5-
試合は南海高校の勝利で幕が閉じた。観客が帰る支度を始めている中、イナオたちはバックネット裏まで移動していた。
「よう、サイ。なんや、観に来てたんかい」
眼鏡をかけた太ましい体型の人物が、バックネット越しからイナオをアダ名で呼び、親しげに声を掛けてきたのである。その人物とは、カーブボールを狙い打ちホームランを打った選手……ノムラ克也。イナオがムースと呼んだ人だった。
「ああ、ムース。観に来てやったよ」
イナオも片手を上げ、気軽に返答する。そんな二人とは三歩ほど離れているヒロは先ほど……と言うより試合の途中から、疑問に思っていたことがあった。
「ムース?」
変な名前に首を傾げ、ふと漏らした言葉に隣にいた沙希が反応し、ヒソヒソと教えてあげた。
「あのノムラさんのアダ名なんです。なんでも、いつもムスっとしているから、そう名付けられたみたいですよ。ワダ先輩に」
「ああ、なるほど……」
アダ名の名付け親の名を聞いて納得するヒロ。
「てかっ、ワダさん。他校の人たちにも付けているんだ……」
「アダ名を付けるのが趣味な人ですからね……」
ワダからアダ名を付けられた人が他にもいるんだろうなと、心の中で密かに思うヒロと沙希をよそに、イナオとノムラ(ムース)も話しに花が咲いているようだった。
「ムース。あのホームランは見事だったな。カーブ打ちが上手くなっているみたいだが、もうカーブのお化けは恐くないのか?」
「いやいや、なになに。無我夢中に振ったら、偶然当たっただけですわ。そういうサイちゃんも、前の試合でスライダーがよく決まとったな。しかし、あんなスライダーより決め球のシュートを投げられたら、ウチらはお手上げやわ」
「はは、何言ってるんだが。俺の決め球はスライダー……って、何で知っているんだ? 観に来ていたのか?」
「ふふ、それは企業秘密だよ」
仲良く話し合っているようだが、どこかぎこちなさをヒロは感じ取る。笑っていたりするのだが、目は笑っていない。
「なんか様子がおかしいよね?」
不自然な二人の関係について、こっそりと沙希に訊ねた。
「ああ。イナオさんとノムラさんは、所謂ライバル関係みたいだからね。いつもあんな感じで腹の探り合いをしているのよ」
「そ、そうなんだ……」
なんとも微妙で重い内容を微笑ましく軽く言いのける沙希。ヒロは自然と引きつった笑みがこぼれてしまった。すると、ノムラがイナオの奥に居たヒロたちに気付く。
「ん? なんや、ツレがあったんか。おや、そこのは前の試合で散々な投手だったヤツじゃないか」
「えっ!?」
突然の名指しに、ヒロは驚きの声を上げてしまった。勿論、ノムラを見るのも知るのも今日が初めてだ。なのにノムラの方はヒロのことを知っているようだった。
「流石はムース。既にチェックしているのか……」
先ほどのシュートの件といい、ヒロのことを把握している事といい、イナオは感心する。ノムラ……いや、個人の力では無い。南海高校にはスコアラーと呼ばれる調査員が存在しているとの噂は聴いていた。前の試合もスコアラーが派遣されて、イナオやヒロの情報を得ていたのだろう。
「なに。ちょっと“面白い球”を放るみたいじゃないか」
イナオの眉がピクっと動き、ノムラが言わんとしていることを解した。ヒロのフォークボールのことだ。まだイナオたちしか知らないことである。ましてや前の試合では、正しく変化したのは三球ほどだ。
ヒロに、そしてフォークボールに気に留める人間はそこまでいないはず……と思っていたのだが、ノムラや南海高校はしっかりと把握していることにイナオの背筋が冷えた。
「お、面白い……」
一方ヒロは、あの試合の投球を知られている事を踏まえて、バカにされたように捉えてしまい、少しだけ気分が晴れていたのに、またどんよりとした雲が心を覆った。
そんなヒロをノムラは注意深く伺っている。イナオは、これ以上ヒロを探られないように、別の話しを振る。
「と、ところでムース。織恩高校のオチアイが出場していなかったが、何かあったのか?」
「ああ、オチアイか。なんでも野球部を辞めたみたいだぞ」
イナオは唖然と驚愕が入り混じった表情になり、つい大きな声で訊き返した。
「なにっ!? それは本当なのか?」
「スコアラーの……いや、風の噂を聴いたが、なんでも先輩と揉めたんだとよ。たく、最近の若者は根性や我慢が足らんな。なにはともあれ、その分。ウチらは楽に勝てせた貰ったけどな」
「あ、ムース……」
もっと詳しく話しを聞こうとしたが、ノムラの背後から「ノムラさん、ツルオカ監督が呼んでますよ」と呼びかけられた。ノムラは「解った、すぐ行くわ」と一声掛けると、
「そうや、イナオ。おまえさんの所と当たるのを楽しみに待っとるわ。それじゃ、わしはこれで」
早足でその場を去っていく。イナオはノムラの背中を見ながら「オチアイが辞めてしまったのか……」と、力無く呟いた。
イナオたちの話しを端に聴いていたヒロは、自分が知らない相手の名前が出てきたので沙希に訊く。
「オチアイ……って?」
「イナオ先輩の弟分な方ですよ。一年前の合同練習の時に知り合ったらしく、その時に意気投合したみたいで、非常に仲が良いみたいなんです。イナオ先輩曰く、この高校野球界で五本の指に入る天才バッターだという方です」
「天才バッター……」
話しを聞く限りではオチアイという人物は只者ではないと解った。そしてイナオは、元気の無い足取りでヒロたちの方に近付いてくる。
「おまたせ」
「どうでしたか、ノムラさんとの会話は?」
「いつもの通りだよ。しかし、オチアイが辞めていたとはな。そっちのがショックだったよ。なんせ今日の目的はムースとオチアイを見にきたのにな。オチアイは才能があるのに辞めてしまうなんてな……」
イナオはしみじみと残念そうに呟き、然りげ無くヒロの方に視線を向ける。
「それに、ムースの方も変化球打ちがまた上手くなっていたし。あいつも努力の人だからな。弱点をどんどん克服している……。これはウカウカしていらないな。それが解っただけでも、今日来て良かったな」
沙希は頷くと、持っていたスコアブックを広げて、先ほどイナオが述べた……『ノムラ克也、カーブボール○』とメモした。
今回の敵状視察はそれなりに価値があったようで、イナオはオチアイが居なかったことを差し引いても満足するものであった。
ヒロはこれまでの話しを聞き、複雑な感情が心の中を渦巻いていた。才能が有るという人が野球部を辞めたり、苦手だったものを克服した人もいる。イナオが遠回しに伝えようとしたことを、ヒロは受け止めていたのである。
「さてと、暗くなる前に俺たちも帰るか」
イナオが先頭に立ち、帰路につこうとすると、
「あっ! もしかして、大府内高校のモトスギさんですか!」
背後からの大きな声に、名前を呼ばれたヒロやイナオたちも背中をびくりと震わせた。
作品名:正しいフォークボールの投げ方 作家名:和本明子