そばにいて
ある夜私はスタンドバイミーの映画を再び見る機会にあった。映画配給会社の企画で、新作に混じって過去の名作を放映するという。私を誘ったのはみすずだった。
小学校からの同級生で実家は近所、家を出て一人暮らしを始めてからもずっとお互いのアパートを行き来し合う仲で、親密な関係だった。そんなみすずが夜中に電話してきて映画のことを話し「絶対見たい」と言う。普段は映画なんて特に見ないのになぜか強い意思のようなもので私を誘ったので、女ふたり、休みを合わせて出掛けたのだった。
足を曲げるとみすずのグレーのタイツが色合いをかえたので「透け感がなんかセクシー」と私は言った。するとみすずは笑って、「男受けにはタイツより黒のパンストの方がいいんだって」と答える。私も同じ雑誌を見て知っていたので、ふたりして笑った。コートを脱いでシートに深く腰かけ、レモン味のグミを音をたてずに舐めた。映画が始まるまで自分でマニキュアを塗るかネイルサロンに通うかどちらがいいか、お互いの爪の光沢を比べて話し合った。
映画が始まると私たちは黙って、暗がりの中に身を浸した。スクリーンの灯りに頬を照らされて、私は見上げる。そこには、いつまでもかわらないあの夏の朝もやがあり、12歳のテディが身を潜めていた。
テディは黒ぶちの眼鏡をかけた斜視の12歳の男の子だ。喧嘩っ早く短気、幼い頃父親にストーブで耳を焼かれたというのに、ノルマンディに上陸した父親の亡霊を愛してやまず、それがいつも心の中を埋め尽くしている。
12歳の私には12歳のテディのことしか分からなかったけれど、30歳の私には30歳分、テディのことが分かった。そして明確に、なぜテディが10代のどこかで無謀に命を落としてしまわなければならないのかを理解した。私は生き残ったけれど、友人の中にはテディと同じように死んでしまった子がいた。実際に死んだのはあおいただ一人だけだが、あおいと私たちの違いはほとんどなく、だから今ここにいる私は別の意味ではとっくに死んでしまった私なのだと気が付いたのだった。
あおいは23歳までがんばったけれど後ろを振り返ってしまって、テディと同じように亡霊に捕まって自らを諦めてしまった。そのとき、助けられなかった私たちは声も無く泣いた、当時は死だけがあおいを慰められるのかもしれないと思った。そう考えるしかなかった。どうすることもできない無力について、真正面から引き受けられるほど私たちは強くもなく、利口でもなかった。
みすずは泣いていた。
「あおいのことを思い出した」と私が言うと、みすずは黙ったまま頷いた。隣に私がいるのに、みすずは暗い映画館で一人ぼっちで座っているかのようだった。
12歳のテディは父親を敬愛し、同じように軍隊に入ることそれだけを夢とし信じることで、暗いニュースや不穏な影から身を守ろうとしていた。振り返ってみれば、私たちもまったく同じだった。怖いおばけが来ないように枕元にぬいぐるみを並べ、守られながら眠ろうとした。そして同様に、年頃になれば男の子たちに夢を求めた。真実の愛、頑丈な愛、裏切りのない完全な愛、無償の愛、尽きることのない愛。恋に対する憧れが実を結んで、確実に自分の身を守ってくれるものとなる。あおいはそれに如実に身を傾けた。あおいはより真実へ、より重く深い愛を追い求めるあまり、嘘や欺瞞を許すことができず、ゆっくりと、まるで男たちの間で手渡しで運ばれていくように絶望へと進んでいった。
最後にあおいに会ったのは、りかの家だった。短大を卒業してすぐに結婚し、早くも子育てに人生が覆い尽くされていたりかは、いつもみんなを自宅に集めて遊びたがっていた。豹柄と黒っぽい趣味でまとめられた部屋に、不釣り合いな哺乳瓶や柔らかい音の出るおもちゃがぱらぱら散らばっていて、子育ての方法に詳しくない若いカップルが行き当たりばったりで家庭を築いていく、そんな荒削りな生活を私は慄きながら感じていた。
それでもりかは私のよく知っているりかには違いなかった。誰よりも髪を結ぶのが上手くて、おしゃれも抜群、バレンタインデーには毎年違う男の子にチョコレートを渡して飛びまわっていた女の子は、りか以外には考えられなかった。
赤ん坊であるひなちゃんを珍しいおもちゃのように順々に抱っこしながら、私たちはポテトチップスを齧ってお喋りした。ふと何かの拍子に母親の話になった。さつきのお母さんが更年期で、最近ごはんを作ってくれない、と言いだしたのだ。異常なほてりや発汗があり、ひどいだるさのあまり家事を放り出して寝込んでいるらしい。
するとゆきが言った。「フラッシュなんとかっていうやつ?」
「ホットフラッシュ」とさつきが答える。
「へー、なんかそれ美味しそう」とみすず。
「ファミレスのメニューにありそう」と私。
何人かがくすくす笑った。
りかが、手元に戻ってきていたひなちゃんを隣のゆきに手渡しながら言った。「うちのお母さんもそう、最近おかしいもん」
「何が?」二周目で体重が腕に堪えるようになったのか、ひなちゃんを抱えさせられてゆきはちょっと迷惑そうだった。
りかはポテトチップスに手をのばしながら言った。それを見ながら私は口の中に入れていた同じものを奥歯で噛んだ。口の中に破片が飛び散るのが分かった。「お母さんにね、ひなの面倒はもうみられないって言われたの」
「え、なんで?」
「りかが甘えすぎたんじゃないの」
「仕事がくそ忙しいとか」
「足腰が耐えられないとか」
りかが言いたいことを考えるように目を伏せたので、長くて鋭いつけまつげが扇のように開いた。
「ちがうんだよねー。なんか異常。かりかりしてるっていうか、落ち着きがないっていうか」
「更年期の特徴じゃない?」
「50歳てさ、自分の人生を振り返るときなんじゃないの。それで上手くいかないことは人のせいにするの。女の終わりだから、焦りもあるんだよきっと」
さつきの家は、昔からずっと夫婦喧嘩が絶えなかった。ごはんを作ってくれないという話も、本当は今に始まったことではなかった。
「全否定してくるんだよね、私のこと」
「なんで?」
「さあ。出来が悪いからじゃないの」
「そんなこと言ってくるの」
「言うわけじゃないけど、遠回しにけなしてくる。もっと痩せなさいとか、もっと食べなさいとか、気分で言うことは変わるし、化粧してスカートをはくと下品な格好するなって言うし、すっぴんジャージでコンビニに行こうとするとだらしなくて近所に格好悪いとか言うし。いらいらするなーもー」
「うん、それはいらつく」
「聞いてるだけでいらいらする」
ひなちゃんがくしゅんとくしゃみをする。すごく可愛かったのでみんなが笑った。りかだけは暗い表情のままで、ティッシュを一枚ひっこ抜いてひなちゃんの鼻を擦った。にわかに湧いた笑いを押しつぶそうとするかのようだった。
「お前とは性格が合わないって平気で言うのよ」とさつき。
「それはひどい」
「しかも問題はその上で愛されるってことなんだよ」
「そう、罵るくせに」
「だからこっちが悪いのかなって思わされる」
小学校からの同級生で実家は近所、家を出て一人暮らしを始めてからもずっとお互いのアパートを行き来し合う仲で、親密な関係だった。そんなみすずが夜中に電話してきて映画のことを話し「絶対見たい」と言う。普段は映画なんて特に見ないのになぜか強い意思のようなもので私を誘ったので、女ふたり、休みを合わせて出掛けたのだった。
足を曲げるとみすずのグレーのタイツが色合いをかえたので「透け感がなんかセクシー」と私は言った。するとみすずは笑って、「男受けにはタイツより黒のパンストの方がいいんだって」と答える。私も同じ雑誌を見て知っていたので、ふたりして笑った。コートを脱いでシートに深く腰かけ、レモン味のグミを音をたてずに舐めた。映画が始まるまで自分でマニキュアを塗るかネイルサロンに通うかどちらがいいか、お互いの爪の光沢を比べて話し合った。
映画が始まると私たちは黙って、暗がりの中に身を浸した。スクリーンの灯りに頬を照らされて、私は見上げる。そこには、いつまでもかわらないあの夏の朝もやがあり、12歳のテディが身を潜めていた。
テディは黒ぶちの眼鏡をかけた斜視の12歳の男の子だ。喧嘩っ早く短気、幼い頃父親にストーブで耳を焼かれたというのに、ノルマンディに上陸した父親の亡霊を愛してやまず、それがいつも心の中を埋め尽くしている。
12歳の私には12歳のテディのことしか分からなかったけれど、30歳の私には30歳分、テディのことが分かった。そして明確に、なぜテディが10代のどこかで無謀に命を落としてしまわなければならないのかを理解した。私は生き残ったけれど、友人の中にはテディと同じように死んでしまった子がいた。実際に死んだのはあおいただ一人だけだが、あおいと私たちの違いはほとんどなく、だから今ここにいる私は別の意味ではとっくに死んでしまった私なのだと気が付いたのだった。
あおいは23歳までがんばったけれど後ろを振り返ってしまって、テディと同じように亡霊に捕まって自らを諦めてしまった。そのとき、助けられなかった私たちは声も無く泣いた、当時は死だけがあおいを慰められるのかもしれないと思った。そう考えるしかなかった。どうすることもできない無力について、真正面から引き受けられるほど私たちは強くもなく、利口でもなかった。
みすずは泣いていた。
「あおいのことを思い出した」と私が言うと、みすずは黙ったまま頷いた。隣に私がいるのに、みすずは暗い映画館で一人ぼっちで座っているかのようだった。
12歳のテディは父親を敬愛し、同じように軍隊に入ることそれだけを夢とし信じることで、暗いニュースや不穏な影から身を守ろうとしていた。振り返ってみれば、私たちもまったく同じだった。怖いおばけが来ないように枕元にぬいぐるみを並べ、守られながら眠ろうとした。そして同様に、年頃になれば男の子たちに夢を求めた。真実の愛、頑丈な愛、裏切りのない完全な愛、無償の愛、尽きることのない愛。恋に対する憧れが実を結んで、確実に自分の身を守ってくれるものとなる。あおいはそれに如実に身を傾けた。あおいはより真実へ、より重く深い愛を追い求めるあまり、嘘や欺瞞を許すことができず、ゆっくりと、まるで男たちの間で手渡しで運ばれていくように絶望へと進んでいった。
最後にあおいに会ったのは、りかの家だった。短大を卒業してすぐに結婚し、早くも子育てに人生が覆い尽くされていたりかは、いつもみんなを自宅に集めて遊びたがっていた。豹柄と黒っぽい趣味でまとめられた部屋に、不釣り合いな哺乳瓶や柔らかい音の出るおもちゃがぱらぱら散らばっていて、子育ての方法に詳しくない若いカップルが行き当たりばったりで家庭を築いていく、そんな荒削りな生活を私は慄きながら感じていた。
それでもりかは私のよく知っているりかには違いなかった。誰よりも髪を結ぶのが上手くて、おしゃれも抜群、バレンタインデーには毎年違う男の子にチョコレートを渡して飛びまわっていた女の子は、りか以外には考えられなかった。
赤ん坊であるひなちゃんを珍しいおもちゃのように順々に抱っこしながら、私たちはポテトチップスを齧ってお喋りした。ふと何かの拍子に母親の話になった。さつきのお母さんが更年期で、最近ごはんを作ってくれない、と言いだしたのだ。異常なほてりや発汗があり、ひどいだるさのあまり家事を放り出して寝込んでいるらしい。
するとゆきが言った。「フラッシュなんとかっていうやつ?」
「ホットフラッシュ」とさつきが答える。
「へー、なんかそれ美味しそう」とみすず。
「ファミレスのメニューにありそう」と私。
何人かがくすくす笑った。
りかが、手元に戻ってきていたひなちゃんを隣のゆきに手渡しながら言った。「うちのお母さんもそう、最近おかしいもん」
「何が?」二周目で体重が腕に堪えるようになったのか、ひなちゃんを抱えさせられてゆきはちょっと迷惑そうだった。
りかはポテトチップスに手をのばしながら言った。それを見ながら私は口の中に入れていた同じものを奥歯で噛んだ。口の中に破片が飛び散るのが分かった。「お母さんにね、ひなの面倒はもうみられないって言われたの」
「え、なんで?」
「りかが甘えすぎたんじゃないの」
「仕事がくそ忙しいとか」
「足腰が耐えられないとか」
りかが言いたいことを考えるように目を伏せたので、長くて鋭いつけまつげが扇のように開いた。
「ちがうんだよねー。なんか異常。かりかりしてるっていうか、落ち着きがないっていうか」
「更年期の特徴じゃない?」
「50歳てさ、自分の人生を振り返るときなんじゃないの。それで上手くいかないことは人のせいにするの。女の終わりだから、焦りもあるんだよきっと」
さつきの家は、昔からずっと夫婦喧嘩が絶えなかった。ごはんを作ってくれないという話も、本当は今に始まったことではなかった。
「全否定してくるんだよね、私のこと」
「なんで?」
「さあ。出来が悪いからじゃないの」
「そんなこと言ってくるの」
「言うわけじゃないけど、遠回しにけなしてくる。もっと痩せなさいとか、もっと食べなさいとか、気分で言うことは変わるし、化粧してスカートをはくと下品な格好するなって言うし、すっぴんジャージでコンビニに行こうとするとだらしなくて近所に格好悪いとか言うし。いらいらするなーもー」
「うん、それはいらつく」
「聞いてるだけでいらいらする」
ひなちゃんがくしゅんとくしゃみをする。すごく可愛かったのでみんなが笑った。りかだけは暗い表情のままで、ティッシュを一枚ひっこ抜いてひなちゃんの鼻を擦った。にわかに湧いた笑いを押しつぶそうとするかのようだった。
「お前とは性格が合わないって平気で言うのよ」とさつき。
「それはひどい」
「しかも問題はその上で愛されるってことなんだよ」
「そう、罵るくせに」
「だからこっちが悪いのかなって思わされる」