きんもくせい
だから私は、朱音に愛していると、言えない。
*
私が朱音に惹かれたのは、その端麗なる容姿で包まれた、人間くさい一面があったからだ。最初のうちは気付かなかったけれど、話していくうちに朱音は私と同じように、時に私よりもひどい一面があった。食事のマナーもそうだし、意外に毒舌で、掃除もろくにできないらしく、物の扱いも乱雑で、貸した本に折り目ができていたりすることはよくあった。朱音には短所が多かったが、朱音の外面だけしか知らないものがいると思うと、優越感が私の心を満たした。はじめは、優越感だった。
「柑奈ちゃんがいたら、わたしはそれでいいよ」
そう言って、いつも朱音は笑っていた。帰り道には手をつなぐことはよくあったし、感動ものの映画を見に行って二人で泣きあったり、お互い真っ赤に腫れた目を見て笑いあったりした。そうこうしているうちに、友人だと思っていた朱音が、だんだんと違う部類に思えてきた。朱音に触れればもっと触れたくなり、もっと奥深くを知りたくなった。友人に対してそんな感情は初めてで、だけどきっとこれは普通なんだと思っていた。だけど、あるとき。朱音に唇で触れたいと思ったそのときに、私は気付いた。これは、恋なんだと。
キスをしたいと思うのは、赤ん坊が興味のあるものを口に含むのと同じらしい。それはつまり私が朱音に興味を持っていることになる。もともと、容姿から思いもしないような短所を持っている朱音に興味はあるつもりだった。だけどそれが、恋だとか愛の興味だなんて、思ってなかった。朱音の手を触れるたびに思う。これは黙っていなければならないことだと。何でも話し合う仲になろうね、なんて朱音は言うけれど、言っていいことと悪いことが世の中にはある。プラスの感情である、好きだとしても。
「私はね、朱音とこうやって一緒に下校できるだけでいいよ」
「なあに、柑奈ちゃん。急にどうしたの?」
くすくす、と笑いながら、ゆるゆると朱音は私の手と自分のをからめる。手にあったかい感覚がじわりとする。もう朱音のこの行動には慣れた。おとなしくからめられながら、私は内緒、と笑った。
「この下校してる時間が、いちばん幸せ」
だって夕日に飲み込まれた通学路に二人だけって、閉鎖的で素敵じゃない。私の言葉ににこにこ笑いながら、朱音は空を見上げた。まるで世界の終わりのような、まっかな夕日。じとりじとりと赤を帯びていて、とてもきれいだった。
「心中も駆け落ちも、しなくていい世界になればいいのにね」
かなしそうに声を響かせて、朱音は空を見つづけている。そうだね、私もそう思うよ。好きな人に好きと言える世界であれば、隠しごとをしなくったっていいのに。
「柑奈ちゃん。明日、世界が終わっちゃえばいいのにね」
足をつんと伸ばして、朱音は大股で歩く。私はそれにゆっくりついていく。もうすぐ朱音と別れなければならない、あの角に着く。分かっている別れなんて、本当は嫌だ。朱音と過ごせる下校時間は好きだけれど、この別れる前が一番苦しい。また明日、なんて本当に来るかわからないんだから。
「……角まで来ちゃったね」
朱音が私の心を読みすかしたように、そうつぶやいてどきりとした。前を向くと、角があった。無表情な角と、そしてそうそうと生えているオレンジのちいさな花。金木犀だ。
「お別れだね」
金木犀の香りに包まれながら朱音は笑む。金木犀の香りに包まれながら私も笑う。二人とも金木犀に包まれて、私は嘘に包まれた言葉を吐く。
「そうだね」
私の横にいた朱音はゆっくりと離れて、朱音は右に逸れた。私はこのまままっすぐ進むから、すぐにお互い見えなくなる。
「ばいばい、柑奈ちゃん」
朱音はそう言って、手を振った。いつもの別れ、いつもと同じ別れ。私はもうこんな光景は見たくなんてなかった。いっそのこと、朱音をさらってしまえば、こんな景色見ないで済むのに。私の知らない、朱音だけが行く道。もうそんなところへ行かないでと言いたかった。
心中と駆け落ち、どっちが幸せなんて興味なかった。人生をおもちゃにしようとしているのかもしれない。一生一緒にいて幸せなんてありえないことぐらいわかってる。でも、私に振っていた手をつかんで、ここじゃないどこかへ行きたかった。それは単なる衝動。寝ずに考えれば、きっと諦めてしまうような衝動。そう、私は駆け落ちから逃げ出したフリッツにそっくりだったのだ。
「……ばいばい」
朱音の手をつかもうとしていた私の右手は力を失って、ゆっくりと朱音に向けて手を振った。駆け落ちでも心中でもいいから、朱音の手を引っ張れば良かったんだと思う。でも私はそうはしなかった。朱音に、知られたくなかったのだ。このあさましい思いを。
「ばい、ばい」
金木犀の角を曲がっていく朱音の後姿は、心をしめつけるほど苦しかった。見たくない、私の知らない道を行く朱音が。きゅ、とシューズを地面にすりつけて、そのまままっすぐと歩く。朱音の姿はもうない。ばいばい、ばいばい。いつも繰り返すことなのに、どうして今日はこんなに苦しいんだろう。空を見上げると、空が燃えるように真っ赤で、、こんな世界なんて本当に終わってしまえばいいのに、と思った。
金木犀が、ずうっと私につきまとうように、甘く香っていた。