ずっと
「ねえ、この石膏どう思う?」
「描くよりも ずっと見ていたい感じです。表面も滑らかで……でもこれ何だろう?」
「スポーツしてる人」
そう言われて沙紀は、オブジェを見つめた。上半身も右の肩と頭だけ、性別もわからない。
ずいぶん抽象的な石膏の塊としか見えなかった。それなのに 何故か暖かい雰囲気があると沙紀は思って描いていた。
「これ、部長の作品ですか?」
「まあ、そんなところ。何かわかんないだろう? でも顧問のカンバは褒めてくれたよ」
顧問のカンバとは、カンバスのような四角くて色白な顔つきの顧問教諭、神部(かんべ)に付けられたあだ名だ。
先輩から ずっと受け継がれ言われてきた由緒あるあだ名だった。
「じゃあ、モデルもいるのかな。羨ましいな」
「羨ましい?」
「だって、部長に見つめられて、作品でずっと残っていくんですから」
部長は、オブジェの表面を手で触れながら、少し寂しげな表情を見せた。
「音楽も 小説も こういった美術品も ずっと残るって凄いよな。もうこんな表情に会えなくなっても、此処で命を持つっていうのか……うまく言えないけどさ」
沙紀は、聞いてはいけない大切な想い出に触れてしまった気がして、言葉がでなかった。
「部長…」
窓が、赤く染まる部室で、部長は話し始めた。
「去年の夏前だったかな。夏休みの制作の為に素材を探していたんだ。景色も見たし、静物画もどうかなってね。そんなとき体育館で見つけたんだ。どっかの学校との練習試合だったのかな。ゴールは決めないのにチームの人に的確なパスを送る子。どんな球も追いかけて、相手と果敢に競り合って、凄くかっこいいの。だから、夏休みかけて 制作した。ずっと、走ってる姿が、デッサンなんか見なくたって 頭の中にあってね。平面じゃない、立体的な躍動感が表現できたらいいなってさ。今年は、きっともっと活躍するんだろうなって思ってた。そしたらさ……故障しちゃったってさ。……治ると思っているけど、傍にいるのもいいなってさ。っははは。さてと、帰るか。おーい帰るぞ」
「部長? あ、片付けします」
沙紀の頭の中に思うことを信じていいのか、迷いに似た感情と平静を装う感情が入り混じっていた。
「こっちは大丈夫。帰り支度していいよ」
部長は、何枚もの画板と画用紙と沙紀の描いた絵を棚にしまい、オブジェに白い布をかけた。
沙紀は、車椅子から松葉杖に変え、鞄を肩に掛けると部長の片付けるのを待った。
「すみません。お手伝いもままならなくて」
「いいって。さてと 戸締りOK」
二階にある部室から 階段を降りるとき、何となく気遣う部長と沙紀はゆっくり歩いた。
「職員室に鍵置いてくるから靴箱のところで待っててよ」
「はい」
靴を履き替え、ひとつ灯る蛍光灯を眺めながら、沙紀は思う。
地中で何年も暮す蝉のようにじっと見つからないようにいたつもりなのに
あなたは私を見つけてしまった。……の?
地上に這い出した蝉は、
まだ翅の広げ方も知らないのに
まだ白い翅は、柔らかく脆いのに
まだ捕まる木すら決めていなかったのに
這い出し歩いた熱いアスファルトの上で 背を割り 身を晒す。
陽が照りつける道路の上で 懸命に殻を脱ぐ。
早くあなたに認められたくて もがいて殻を脱ぐ。
誰かが守ってくれている。
影を作り、道行く人に注意を払い、その人は殻を脱ぐのを見守ってくれる。
殻を脱いだら、その人の元を飛び立ってしまうかもしれないのに
美しくなるのを見守ってくれる。
なんてわたしの夢物語。
部長が、そんなふうに思ってるわけないもの。
沙紀の肩を軽く叩いたのは、部長だった。
「どうした? 気持ち此処にあらずって 意識が浮遊してたよ」
「え? あ、ああ」
「さ、また明日も良い日になるぞ」
「あのオブジェ 素敵です。きっと描いて戴いた子も喜んでいると思う」
「そう思う?」
沙紀に歩調を合わせて部長も、のんびりと歩いた。
「その松葉杖がなくなったら、ぼくが松葉杖になってもいいかなぁ」
沙紀は、前を向いたまま、コクリと頷いた。
「ずっとな」
「うん、ずっと」
暗いアスファルトに 見えない二人の影は手を繋いでいたのかもしれない。
― 了 ―